第一部 日本とアメリカ対立—

第一章 日本行き、そして帰国

駐米日本大使への誘い

これは軽井沢で静養していた我輩のご主人に、数日前外相の古代(こだい)行過(ゆきすぎ)氏から

「至急会いたいので急ぎ東京に戻られたし」

という電報が届いたため何事かと慌てて東京に戻り、当人に会って帰宅した時の我輩のご主人との会話の模様だ。

我輩は我輩のご主人が海軍や外務省の関係者たちと歓談したり、電話で話したりするのを傍でじっと聞いていたので、この種の生々しい話には慣れていた。特に古代という聊か誇大妄想気味ではあるが外交感覚の鋭い男との電話のやり取りも以前何度か聞いていたので彼が我輩のご主人に駐米大使を打診したのも分からんではない。

外務省にはこの古代タイプの外交官が昔から時々現れる。その特徴は“自信満々、唯我独尊、自画自賛”。官庁では今でもよく「やり手」とか「切れ者」という言い方をするが、この手のタイプは「好事魔多し」で往々にしてやり過ぎて失敗する人が多い。

さて、それからというもの。二か月ほどの間、何事につけ慎重な我輩のご主人は外務省や海軍の知り合い、関係者など様々な人を訪問したり、自宅に迎えたりしながら慌しく動き回っていた。我輩も時折ご主人のお供をして相手の話を聞いたりしながら大使受諾の可否を我輩なりに判断していた。

外務省の関係者は、

「今の日米関係は最悪で交渉も厳しく、責任者として赴任すればボロボロにされることは火を見るよりも明らか。現地の大使館員も落下傘で降り立った外様の大使には直ぐに得意の【い・こ・い(いじめ、こらしめ、いやがらせ)】を始め、必要な情報を流さず、共有せず、当人が職務を果たせず失敗するように常に気を配る。

海外赴任時に我々外務官僚が一番恐れることは本省にその存在を忘れ去られて“糸の切れた凧”状態に陥り、出世コースから外れることだ。新任大使が本省の大臣、次官、局長クラスに特別かつ強力なコネが無いと分かれば、将来の自分の出世にはプラスにならず、完璧に無視する態度に出る。結果として仕事も満足にはかどらない。悪いことは言わないから火中の栗を拾う愚は止めた方が賢明だ、云々……」

と親切心と経験則から我輩のご主人に受諾を思い留まらせようとする人が殆どだった。その中には親切心の陰で、

「駐米大使として行くなら自分が適役で、貴職ではないよ」

と明らかに我輩のご主人の受諾を快く思っていないと感じさせる方もおり、それは彼らのアドバイスする言葉の端々に現れたのを我輩は観て取った。

もちろん中には、

「今、日米関係はガタガタだが大統領と“差しで話ができる”のは貴職しかいないから、是非に」

と、励ましてくれた人も大勢いたことは事実だ。尤もこのような人たちも一枚皮をめくると「他人の不幸は鴨の味」とばかりに自分が傷つくのは嫌だが他人が傷つくのを見るのは大好きな人が多いのでこれも額面通りに受け止めることは危険だった。

また海軍関係者からは、

「日米関係は基本的に両国の海軍が中心だから貴職が行ってくれると海軍としては何かと心強い。毎日シャンパン飲んで遊んで暮らしている外交官では今日の危機的状況下では埒が明かぬ。是非受けてはどうか」

と直ぐにでも受諾すべしと主張する者もいた。

前述した通り、我輩のご主人は四か月の短い期間だったが外務大臣職を拝命し、苦い経験をしたので外務省の体質については多少の理解はしていたと思う。軍隊では「上司の命令は絶対服従」だが、外務省など行政官庁では入省年次序列が基本。同期の内、誰かが次官に昇格した時点で他の全ての同期生は一斉に退官となるのが慣例だから、入省したその日から出世競争で凌ぎを削る。

上司の命令は基本的に服従するが、軍隊と違って命令無視、面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)は当たり前。そういう世界に短期間とはいえ身を置いた経験から大使受諾に対する拒否感と不安感が交錯したのかも知れない。しかし世の中は我輩のご主人の思惑など斟酌(しんしゃく)することなく回転する。

どうしよう、どうしようと心が揺れ動いている間にも一九四〇年の夏以降、日独伊三国同盟の締結、米国の日本締め付け強化、大統領の三選、日本と中国との関係も一段と悪化するなど日本を取り囲む政治的、軍事的環境は目まぐるしく転変し、日本の置かれている外交上の課題、日米関係も益々厳しさを増していった。