年号に関しては、書紀が年号を残すことができた場合と、年号を記すことができなかった場合とで、その理由は一目瞭然である。その年号の期間を一斉に平行移動している場合は、年号を記すことができたのである。大化・白雉年号である。

これに対して、法興・白鳳年号は、それらの年号の期間が平行移動されておらず、年号を付すと編年操作の馬脚が露見するため記載できなかったのである(法興年号の最終年がいつであるかはとりあえず不明であるが少なくとも31年までは存在したので、そこまでを記してある)。

朱鳥年号については、本来の年次より1年を繰り上げて、天武天皇崩年である686年に対して朱鳥元年を付したため、2年以降を続けるとやはり矛盾が露呈するため朱鳥元年紀のみで終ったのである。

この表によって、くどいようであるが既述の通り、例えば大化の改新の開始年である大化元年紀は645年ではなく646年であり、壬申乱の年である天武元年紀は672年ではなく673年であることなどを見て取ることができる。