いずれにせよ、心が豊かになったことを証明しがたい、あるいは成果が出たといいづらいがために、目標として掲げながらも何となく曖昧に取り組まれる雰囲気を帯びてしまい、ひいては音楽という教科自体もうやむやに運用されてきた可能性がないといえるでしょうか。

現に、学習指導要領で定められている「扱わなければならない」※2教材である「歌唱共通教材」について、過去に学習した記憶があるか否かを大学生にアンケート調査※3したところ、結果は表1のようでした。

[表1]小学校で学習した記憶のある歌唱共通教材(数値は「記憶がある」という回答の割合)

もし、他の教科、例えば国語や算数で「数パーセントの大学生しか覚えていない小学校の学習内容がある」ということがあったらどうなるでしょうか。音楽では、表1のような有様ですが、これが単に学生の記憶力の問題でないことは明らかで、授業における扱い方に何らかの問題があったことが推察されます。

このように、取り扱うべき内容の実施にまで音楽科の過去の目標の曖昧さが影響を及ぼした可能性がないといいきれるでしょうか。

楽典や読譜能力の定着度についても、類似した状況があります(ここでは詳しく触れませんが、楽譜は不要であるというのは、国語に例えるならば文字を一切使わない学習と重なることになります。楽譜の存在しない音楽はたくさんありますから、一概に国語と同様に考えるべきでない側面もあるものの、楽譜を読み書きできることには、思考を深める上でも一定の効果があると考えます)。


※2 この点については、共通教材が昭和33年以来教育現場に存在することを無批判に是認してはならないという主張(山本文茂『音楽はなぜ学校に必要かその人間的・教育的価値を考える』音楽之友社、2018、p.50.)もある。ただ、本書では、共通教材という設定がなくなることによって、教育現場では次のようなことが起こる可能性を指摘したい。

平成10年告示の学習指導要領において、鑑賞の共通教材が撤廃された。そのことで、柔軟に多くの楽曲に触れることができるようにされたといわれ、鑑賞重視と見る向きがあった。しかし、共通教材の廃止によって、むしろ縛りを失ったがために、鑑賞そのもの自体が実施されにくくなったという現実があると考えられる。

指定された鑑賞教材が学習指導要領から消えたことが、教師がもっと自由に教材を選択できるようにという形よりも、鑑賞の実践が下火になった側面を帯びているように見える(芳賀均・佐藤友夏「月刊誌『教育音楽(小学版)』の記事における指導過程の検討─音楽鑑賞に関わって─」『旭川実践教育研究』20、pp.21-24.)。

全国の実践家がどのような授業を行っているのか、音楽之友社刊の月刊誌『教育音楽(小学版)』(通常、書店で入手できる音楽教育の専門誌は、中学・高校版とこれのみである)の複数の年代における音楽鑑賞に関わる指導について整理・検討したところ、授業過程の記述された記事や、実践例自体が他の年代より明らかに少なかった。

※3 北海道教育大学旭川校における授業「小学校音楽科教育法」の平成27年度の受講生215名から回答を得た。(芳賀均・布施美砂子・久保允人「教員養成『小学校音楽科教育法』の授業に関する考察」『北海道教育大学紀要(教育科学編)』67(1)、2016、p.363.)