【前回の記事を読む】銀座のママの金言「人生の目的は生きること」の深い意味とは
庶民目線で庶民史観というようなものを語ってみようじゃないか
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仏教人の一部で説かれるものに、「人間の業ごうの後始末」の問題がある。その考えはこうである。
「仏教徒はもちろんであるが、仏教の倫理観の持ち合わせがある人間ないし日本人なら、長い人生における好き勝手・食い散らかしの放置はあってはならないという戒めの倫理感を持たなければならない、なおかつ様々な人が様々な方法で、個人的に強度な執着心から招いたものの残骸の後始末は自分の代でしなさい」
である。私は、執着を是とするし、それが人間臭い行為だと思う。愛おしくさえある。人生に成功し、何千坪の豪邸を建てるもよし、世界の調度品を集めるもよし、盆栽も庭も芸術品の蒐集もよしと思う。
ただし、その執着と好みも、その個人とせいぜい一部家族に限定されるのが常である。本人が死ねば、後継のお荷物になりかねない。業から作ったものは、生きているうちに、適切な後始末が必要である。土地も元は無主で本来は借り物、成功も自分の才能に加え他人のお陰、と考えれば、食い散らかしであることを認めその後始末だけはしてから、せめて準備をしてから最期を迎えなければならない。
派手な芸能人も、時を得た成金も成功者も、一代の栄華の後を濁さず、遺言も曖昧さを残さない公正証書遺言で業の後始末をするのが、どう見てもお勧めのようである。昨今流行りの「断捨離」は、自分と後続を考えて、この感覚を広く代弁する、庶民なりの行動であろう。
さて、歴史を遡れば、人間の業の最たるものは、地球上に散らばる墓、日本でいえば「古墳」である。一方的に占拠宣言をした土を汚し広大な地面を占拠占領する所業であり、人間の業がなせる美観とは程遠い陳列物、権力の悪しき権力誇示表現である。墓は大小に限らず、すべからく見栄の所産である。
守る者がいない墓は、手続きや費用から簡単に「墓仕舞い」もできず、「さ迷える墓」が激増したり、目につかぬ場所に墓石が捨てられていたりする。墓だけに破壊はできないし後片付けができない、壊して田畑にすべきなどと野暮は言うつもりもないが、世界遺産などとありがたがっている場合ではなさそうであり、むしろ生きた反面教師としての教材にするのが相応しい。