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高校の英語教師から教えられ、その後の人生に沁み込んだ二つのことがある。一つは、英語DULLという言葉が包含する多義性と奥深さである。それを知った意義は大きい。その後の人生のいろんな局面で、脳が「DULLくあれ」と指示・命令してくるのである。生来怠け者の私は、これにはどれだけ助けられたことか、感謝感謝である。
もう一つは、FREEDOMとLIVERTYとの違いである。生来か獲得権利かの区分は、思索・哲学する上において、判断のけじめをつける上において、どれだけ指針になったろうか。教育は、場合によっては、庶民のダラダラ人生にすら影響する。
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私は人生で100歩歩く間、99歩はジャパンを批判し、国家悪や権力悪は暴くことに意義を見出したいと思う。しかし、最後の1歩のところでは、一庶民としてナショナリズムを語り、それを是として死んでゆこうかと思う。ナショナリズムは、私に限定すれば、政治ではなく最後は個人内部の美学の問題であるからである。生まれた地面への謝意の問題でもある。
この謝意は、地球上の生き物として忘れてはならないと思うのである。そんなに良くはないが「そんなには悪くない日本」は、和紙の上に載せてじっと眺めたい。翻って、本来ナショナリズムとは峻別されるべき、国益も権力益(政治益・政党益)も、往々にして交尾み結託する。さらにはエモーショナルな集団的生理的美学やナショナリズムとも睦み、非国益的な悪さをする。
そんなものとは別次元で語られてこそ、ナショナリズムはナショナリズムとしての輝きと美学を持つ。