第一節 坪内逍遙

■坪内逍遙はどんな教育を受けたのか――「東京大学」に入るまで

まず坪内逍遙から始めましょう。ここで心得ておくべきことは、明治維新が起こっても日本の様々な制度がいきなり近代化されたわけではなく、徐々に改められ、時には朝令暮改的に変更が加えられて、いわば一進一退を繰り返す中で、次第に安定した制度へと整えられていったという事情です。学校制度についても例外ではありません。

学校制度の近代化は、明治五年に発布された「学制」が起点となっています。全国を八つの大学区に分け、一つの大学区を三十二の中学区に、一つの中学区を二百十の小学区に分けるというものでした。小学区一つにつき小学校一校、中学区一つにつき中学校一校、大学区一つにつき大学校一校を設けるものとされていました。

そうは言ってもいきなりそれだけの学校を作ることは不可能ですし、翌年には学区の数が変更されるなどするのですが、とりあえず子供の基礎教育に必要な小学校は一万二千校以上が全国に作られています。

しかし、これらの中には江戸期以来の寺子屋をそのまま小学校と称したものが少なくありませんでした。教員にしても、多数の小学校に勤務する学識と教育技術を備えた人間がいきなり必要な数だけ揃うはずもありません。つまり、本当の意味での近代的な小学校ができあがるまでには一定の時間がかかったのです。

大分県の例ですが、明治八年の段階で、小学校の五七・九パーセントが民家を利用しており、社寺が二二・四パーセント、新築の校舎はわずか一一・六パーセントだったといいます。(鹿毛基生『大分県の教育史』)学制が各地の実情に合わないという声が強まり、明治一〇年代になって教育令により手直しがなされますが、その点についてはまた後で触れることにしましょう。

ここで大切なのは、逍遙がどういう教育を受けて最終学歴、つまり東京大学に至ったのかだからです。江戸末期に生まれて明治初期に成長していった彼は、日本の教育制度が少しずつ作られていく過程の中で学校に通った人間だったのです。