【前回の記事を読む】「学校制度の近代化」のなかで教育を受けた、文豪・坪内逍遙の学歴

第一章 日本近代文学の出発点に存在した学校と学歴――東京大学卒の坪内逍遙と東京外国語学校中退の二葉亭四迷

第一節 坪内逍遙

■坪内逍遙はどんな教育を受けたのか――「東京大学」に入るまで

逍遙は安政六年(一八五九年)五月に現在で言う岐阜県美濃加茂市の太田に生まれました。父は尾張藩の下級武士でした。両親は十人の子女をもうけましたが、幼名雄蔵といった逍遙はその末子でした。明治二年に父の隠居にともない名古屋に移っています。

逍遙が初めて寺子屋で学ぶようになったのが明治二年(一八六九年)、満一〇歳のときでした。明治五年の学制公布より前のことでもあり、この頃の寺子屋はまさに江戸期のままだったようです。逍遙はここで二年間を過ごします。

しかし明治四年、維新後に上京して司法省の役人となっていた一四歳年長の長兄が名古屋に帰省した際に父に意見をして、末弟の教育を低レベルの寺子屋に委ねてはいけない、外国語を学ばせて、一日も早く上京させたほうがいいと勧めたのです。つまり、学制が公布される前から、少なくとも一部の人間には近代的な教育の重要性と、西洋語修得の必要性が強く意識されていたことが分かります。

兄の意見もあって、逍遙は明治五年八月に名古屋県英語学校に入学します。この学校は一年後に廃止されてしまいますが、新たに設立された県立成美学校に明治六年一一月に入ります。ところがこの学校もほどなく休校となり、逍遙は明治七年九月に新設の愛知外国語学校に入学します。これは県立ではなく官立(今で言う国立)でした。

明治五年公布の学制により大学区が作られたわけですが、大学区ごとに外国語学校を設けるという方針を文部省がとったからです。校名はまもなく愛知英語学校と改められました。逍遙はこの学校で二年間学び、明治九年(一八七六年)九月に卒業、上京して開成学校に入学します。このとき全国の大学区にある英語学校を出て開成学校に入学した学生は七十九名だったといいます。