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それからの私の生活は悲惨だった。
まだ七十歳を過ぎたばかりで体は動くのに、息子が嫁を連れて家に頻繫に出入りするようになった。娘も急に家に来るようになった。子どもたちは、母親が若い男に狂ったか、本当にぼけてしまったと思ったようだった。毎日のように誰かに監視され、とても不自由を強いられた。
子どもにしてみれば、そう思うのだろう。子どもの監視の目を盗んで、私は警察に嘆願書を書いた。彼に騙されたほかの高齢者からも、同様の署名が集まっていると聞いたからだ。
坂本曜のやったことは悪いことだけど、あの子は心の底から悪い人間ではない。これだけは私自身が深く信じて、疑っていなかった。
「なんとか坂本曜の罪を軽減してください。なんとか彼に、やり直しのチャンスをお与えください」
拙い文で、平仮名だらけだったけど、必死に便箋に文字を記した。
「坂本曜が家に来て、幸せでした」で締めくくった手紙を、地域の警察署長に送った。
それから、私は心を閉じた。心を閉じていなければ、とても耐えられなかった。
近所の人からも、好奇の目で見られ、息子や娘のつれあいには、当たり前のようにいくつもの嫌がらせをされる。食事も満足に与えられずに、外に散歩に出る機会さえ奪われた。
それから間もなく、私は施設に入れられることになった。施設とは名ばかりの、質素で古びたマンションだった。サービス付き高齢者向け住宅とは名ばかりで、食事はとても粗末なものだった。
時々食事を抜かされていると感じるのは、私がぼけているせいだけではない。ほかの入居者にも、「食事が三食出ないわね」と言われたことがある。なにより嫌なのが、トイレの掃除がされないことだ。それでも家にいて、子どもたちからチクチク嫌味を言われるより、ここの生活のほうが何倍かマシだと思った。
私はできることなら、坂本曜の記憶ごとなにもかも忘れてしまいたい、本当に認知症になってしまいたいと願っていた。今までのすべてのことが現実で、その延長で現在の生活を受け入れることは、みじめすぎる。
なぜ大金を坂本に支払ってしまったのか、あのときは運命の大きな渦のなかにいた。あとになって考えてそんなバカなことをと、自分で思ってみても、人は知らずに落ちてしまう魔の刻がある。強いて言うなら、あれは魔が差したのだ。