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芥川賞・直木賞の作品に興味を失い読まなくなって久しい。理由ははっきりしており、それを読まなくても、別に知的欠落を感じなくなったからである。いつ頃からのことだろう? 正確ではなく漠然としているが、世の中に平板なフォークソングが大量に流れ、話し言葉と擬音で書かれる漫画が大量に読まれる頃と軌を一にしているような気がする。

フォークソングを気楽に誰でも作れ歌える、小説も骨身を削ってまで書くものではなく、おしゃべり・会話体で、誰でも身辺雑記を小説に仕上げ、軽く書ける時代が到来したのである。作者が、世間一般より少しマシで少し小ジャレた読み物を書くおじさん・おばさん、お兄ちゃん・お姉ちゃんに見えてきたのである。正に、大衆化・一過性・大量読み捨ての時代を迎えたのである。

私に限って言えば、正直、文章にも作者にも、何らリスペクトの気持ちが湧かなくなってきたのである。ありきたりの身近なアイドルと同じである。わざわざ、金を払って購入し、貴重な時間を費やしてまで読む必要もないと思ってしまうのである。この賞も100回を超えイベントと化した今、から騒ぎも表彰式も何か寒い。それで飯を食べておられる方には悪いが、もうそろそろ役目も役割も終える時期に来たのではないだろうか。庶民感覚に立てばなおさらである。

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「人はどこから来てどこへ行こうとしているのか」

「人生の生きる価値や意味は何か」

なんて、何ともシャラクサイ問いに比べ、

「庶民は何で死なず頑張れるのか」

の問いの方が、はるかに哲学的に思えるのは、私の頭の悪さのせいだろうか。

人生を投げ出させない何か、死ぬことを諦めさせる何かがあってのことである、そうに違いない。少なくとも私はそう思う。そう言えば、世に、「クソ庶民の死なない学」といった、少しガラの悪い哲学本も社会学本も見かけたことがない。これこそ世の七不思議ではないか。みっともない、怖い、死んでたまるか、死にたくない、負けたと言われたくない、家族に迷惑をかけられない、病気には負けられない、死ぬという楽な方なんか採らない……人の数だけギリギリの踏ん張りがあったはずだが、私には全部を拾い出す自信はとてもない。

思えば、庶民の生活は小さな物語が毎日紡がれ積み上がると、苦しみと同じ量の楽しみの日々がない交ぜになり、決断の前のフラッシュバックのせいで却って死ねなくなることも十分あり得る。

改めて考えるのは、人生のしょうもない瑣事・些事や雑事にもめげず、人を死なせずここまで生きさせてきたもの、人生を投げ出す寸前で人を止めたもの、それは何か? である。庶民史の最大のテーマかもしれない。この世の庶民史は、人の数だけ、何物にも代えがたい「小さな物語」があった。それは、殆ど知られることなく、大きな歴史の(ひだ)にのみ込まれてゆく……。庶民生活は、大半を占める平凡さと何にも代えがたい個人的感動や楽しさに彩られる。

このように、命は繰り返されてきたはずである。自分の個人史は苦しいが楽しいぞ、そう思わないか諸君!そう思って、もう少しだけ生き延びようではないか。