【前回の記事を読む】「人生を投げ出す寸前で人を止めたもの、それは何か?」
庶民目線で庶民史観というようなものを語ってみようじゃないか
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第二の人生は、働くのではなくこれはと決めたことにひたすら「動く」ことにしたい。職業でも趣味でもやり残しの消化ではなく、やると決めたことにひたすら「動く」のである。そうすれば、悔いは残らない。
文化系であろうと、運動系であろうと、趣味など定年後半年で飽きる。人生のやり残しをこなすのは結構しんどい。再度正規職員に就くようでは骨身を削り過ぎる。貯蓄と年金で不足するなら、ハーフボランティアもいい。ただ、若い体力がある時期に思い描いたものとは、余りにも勝手が違い、体力が伴わないのである。
しかし、ここが利点であるが、毎日カロリーの高い高価なフランス料理を食べるわけではなく粗食で十分であるし、子どもの教育費も不要なため、生活費など知れている。仲間と動けば、何とか道は開ける。さあ、一庶民の私は、今日も精一杯動くぞ。
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言葉がもどかしいと思えるのは珍しくないが、「庶民の生活史の一コマの素晴らしさ」を語る言葉、これこそがもどかしさのとっておきである。人の営みについて、政治的大枠や虚飾を取り払い、もし近くの衛星の月あたりからの遠望をしてみれば、営みって何だ?の、その「何」の正体とか複雑さとか素晴らしさとかが、少し解ってこようというものだ。
しかし、良さや素晴らしさの理由の言葉を選んで口にしてみるが、少し違う。そう、もどかしいが何か違うのだ。言葉が無力とかそういう問題ではなく、とにかく違うのである。庶民が生きているって、言葉が容易に届かないまでに、とにかくスゴイことなのである。
振り返ってみて、一人の人間も一つの人生も極めて平凡で小さいが、「何か」は、上手い言葉を拒むくらい、一人一人夫々が結構深いし面白い。つまらぬことを喜び、つまらぬことに悩む、それこそ喜怒哀楽の一つ一つが馬鹿らしく、そして愛おしく滑稽でもある。そういう一コマ一コマが、たまらなくいいのである。
思えば、様々な場面でその時々に、光を添え消えていった多くの名も無き庶民たちの群像もいい。庶民、大衆、凡人、誰もが、上手くは言葉にできないが、「生きてたなあ、良かったなあ」そういう思いに至ることが沢山あることこそが、公文書に残らない「庶民史の宝」である。
そんな瞬間があるであろうことが、たとえ歴史に残らなくても生きている価値なんだ、私はこの片隅からそう叫びたい。もし価値という言葉に価値があるとすれば、これこそが価値中の価値である。