後見契約をしたことで、和子を見守る日々はつづいていた。和子の体は徐々に弱ってきているものの、判断能力に衰えをみることはなく、彦坂が和子に代わって財産を管理する事態が生ずることはなかった。しかし和子が病気がちになるにともない、和子から委任を受け、様々な事柄を代行することが増えていった。

人一人が生きていくには様々な事柄に対処しなければならない。足腰が衰えていた和子に代わり、個人年金の現況届の提出や、和子の通院している医院から処方箋をもらい薬局で薬を出してもらってくることも彦坂はしていた。

また独り暮らしの高齢者を狙った電話や訪問販売の詐欺も激増する時代に生きていることで、それから和子を守ることも彦坂はすることになった。怪しい電話や訪問者があった場合は必ず彦坂に連絡するという約束を和子は忠実に守ってくれていた。特殊詐欺と思われる電話には和子は司法書士の彦坂からあなたに連絡させるからと言って退散させた。

和子の彦坂に対する信頼は月日の進行とともに深まっていった。

和子は自分が亡くなった場合、相続人が誰もいないことで遺言を作成しようとしたことから彦坂と知り合ったが、彦坂と後見契約をして数年後に遺言を書き直すことになった。それまでの和子の遺言はある公益団体に全財産を遺贈するというものであったが、これを撤回した。

新たに作成した遺言では和子の死亡後に遺言執行者である彦坂が全財産を換金し、「白鳥ひまわり基金」という公益信託制度を使った基金を、信託会社に働きかけ創設することになった。これは世の中にほとんど例のない手法による基金の設立であったが、法律上可能であることと、これまで数件この手法で基金をつくった例のあることを彦坂が調べ上げ、和子もこのことに同意した。

和子は彦坂の提案に夢をもったのである。和子の死によって白鳥伝説にもつながる和子の古くからつづく家系は途絶えることになる。しかしその遺産で創る基金によって、それが貧しい子どもたちのために使われていく。つまり和子の遺志が和子の死によって「白鳥ひまわり基金」という形をもったものに再生することに等しい。

和子はうれしそうに言った。「彦坂さん、わたしが死んだあとこのような基金ができるのであれば、わたしは大空に羽ばたいていくようで、『死に甲斐』のある基金ですね」。彦坂は笑った。

そのようなやりとりも和子と彦坂との間でなされたある年の七月、彦坂の次月の訪問日を決めることになった。彦坂が黒い表紙の司法書士手帳を開き、「じゃあ八月は、九日の午前十一時半でいいですか。夏休みまえに和子(わこ)さんにお会いしたいですから」と、言った。

和子はなぜか遠い日の光景を見るように、「彦坂一郎さん、あなたは八月九日、午前十一時半にいらしてくれるのですね。どんなことがあっても、必ずわたしに会いに来てくださいね」と、すこし大げさで奇妙な返答をした。そこで彦坂は和子のことばに冗談ぽく返したのだった。「和子(わこさん、僕にどんなことがあっても、八月九日午前十一時半に、ここに来ます」

このことばに和子は泣きそうな顔をした。

昭和二十年八月九日に長崎で被爆した和子にとって、半世紀以上の時間を経ても、この日は特別な日でありつづけた。彦坂は、和子の人生がいつもこの日に戻っていくことを、和子との長いやりとりのなかで知ることになる。

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