第一章
八
前月の訪問日に和子に約束したとおり、彦坂は八月九日午前十一時三十分きっかりに和子の家の呼び鈴を鳴らした。朝から蒸し暑い日だった。和子は玄関に出て彦坂を迎えいれたが、この日は目が少し潤んでいるように見えた。和子は昼の食事を自らの手料理で用意していた。和子は彦坂がおいしそうに食べる姿を見て喜んだ。この昼食を二人で終えた。
昼のテレビニュースでは昭和二十年八月九日午前十一時二分に長崎に原爆が投下されたことを報じていた。和子が長崎で被爆し、被爆者手帳の所持者であることを彦坂は後見契約にいたるまでの準備のなかで知った。彦坂はいま和子がその当時を思い出しているのだと思った。するとテレビニュースを見ていた和子が不意に
「彦坂一郎さん、わたしの体験したあの日をあなたに伝えたいのです」
とことばを発し、昭和二十年八月九日の出来事を語りはじめた。彦坂が聞くことをためらっていた最初の家族と和子の運命の日を、誰に促されたわけではなく和子みずからが語りはじめたのだった。
「……わたしたち家族は長崎の浦うら上かみ盆地にある城山という町に住んでいたのです。付近を浦上川が流れ、東と西にこの地を囲むように山々が見える場所です。東の方角を見ると丘の上に当時東洋一の教会といわれた浦上天主堂も見えていました。そして六十数年前の八月九日も、早朝から蒸し暑い日でした。前夜から空襲警報が何度も鳴っていました。
わたしたち一家はそのたびに近くの防空壕に避難しました。このような状況が八月に入りつづいていたことで、わたしたちは寝不足と疲れと暑さのためにいらいらしていました。そんななかこの日の朝食は雑穀のご飯であったため、白いご飯を食べたいと弟が癇癪を起こして自分のご飯茶碗を割ってしまったのです。わたしは怒って
『健ちゃん、君の昼ご飯はないよ!』
と叱っておりました。これが午前七時ごろのことです。