第一章

彦坂はやえのために様々な問題を解決し、毎月ケアマネージャーの立ち会いのもとに生活費を渡していた。しかしながら、認知症に起因する彼女の被害妄想はさらに進行し、

「彦坂司法書士がわたしの通帳を全部持って行ってしまった」

と近所じゅうに触れ回った。また警察からも

「あなたが通帳を盗んだと斉藤やえさんから通報があった」

と何度か連絡があった。彦坂は

「あの人の通帳を持って行っているのは事実なのだが……」

と苦笑いするしかなかった。彦坂から通帳を奪還できないと考えたやえは次に

「毎月の生活費として六十万円持って来てください」

と彦坂に強く要求した。彦坂は毎月生活費を持って行くたびに彼女を説得し、金額を値切り、三十万円か二十万円を彼女に渡していた。彼女の月の生活費は通帳からの振替が多かったため十万円もかからなかったのである。彼女にとって彦坂は、毎月生活費を持って来る背広を着、ネクタイをしたドロボーに過ぎなかった。このようなやえの彦坂に対する認識ときつい対応が後見人就任から二年間つづいていた。

そして後見人に就任して二年目に入った最初の訪問時、これまでとはあきらかに違う表情をやえは彦坂に見せたのだった。いつものつっけんどんなきついものではない、信頼すべき人と対している穏やかな表情であった。彼女はやっと彦坂が善き人であることを認識したのである。ドロボーではなく、わたしの財産を守ってくれているのがこの人なのだという、百八十度の認識の転換が起こったのである。彦坂が彼女の悪感情にもめげずに訪問しつづけたことが、この認識の変化を生じさせた。彦坂はこのとき後見人をしていてよかったと、この職務の悦びを知った。

その後彦坂がドロボー呼ばわりされることも、無理難題を要求されることもなくなった。しかし彼女の認知症はさらに進行していた。もう自宅での独り暮らしは限界に近づいていた。

ある秋の深まった日であった。米屋の中村から彦坂に電話が入った。やえが夕暮れになると自宅の玄関のまえでうずくまるようになったと。事情をやえに聞くと、この家のなかには自分を殺そうとしている男がいるから家に入れないという。中村はそんな男はいないと彼女を説得し、彼女とともに家のなかに入り、すべての部屋を点検し安心させたのだが、このことは次の日も、その次の日も起こった。夕食の支度に入るヘルパーも加わり、さらにケアマネと彦坂も加わり、やえの妄想を払拭しようとしたが、彼女はその翌日の夕暮れにはこの妄想がぶり返した。

やえの妄想の原因は、彼女が自宅を出る際、必ず狭い庭に落ちている()()を一葉拾い、玄関の扉にその葉を挟んでおくのだが、このところ毎日その葉がなくなっていることだった。やえはこのような小さな日常を送っていた。彦坂はその一葉の葉がなくなる事実と家のなかに殺人者がいるということが、どうして結びつくのかわからなかったが、これはやえが自宅暮らしの限界が来たことのシグナルであると受けとった。