彦坂は彼女が入るための施設を急遽探し出し、それから数日後の午前九時に彼女の自宅を訪問し、彼女をだましだましタクシーに乗せ老人ホームに連れて行ったのだった。施設入所後も原則として毎月一回彦坂は施設に赴きやえと面会した。それが後見人としての務めであると考えていた。彦坂は彼女の面会に訪れるただ一人の人であった。しかしやえと彦坂の会話はだんだんに少なくなっていた。

やえは独り言はいうものの人と会話する能力を失いつつあった。やえは施設入所後五年間存命した。やえは月日の進行とともに人間が枯れていくように少しずつ死に近づいていった。そして冬のあるしずかな月の夜に、息をしなくなり、ひっそりと、死んでいった。誰にも看取られることなく朝ベッドで冷たくなっているのが発見された。やえの最期の夜、やえが何を思い死んだのか、それを想像することはむずかしい。

彦坂は一度、やえの施設入所後、米屋の中村とともに彼女の自宅内部を調査したことがある。案の定、やえが隠していたお金が家のいたるところで発見された。座布団のシーツのなか、畳の下、古いアルバムのなか。彦坂たちが探している最中、天井で鼠が騒いでいた。中村の店から脚立を持ってきてもらい、彦坂が念のためと天井裏も電灯で照らした。ビニールに入った札束があった。小さな老人であったやえはどうやってここに隠したのだろうか。

家のなかに隠してあった現金は総額五百万円弱であった。これを足すとやえの遺産は三千数百万円と自宅不動産になった。彼女は夫とともに生きがいとなる子もなくお金をためることだけを楽しみに爪に火を灯す生活をつづけたものと、推測することができる。夫も亡くなった彼女の晩年には物盗られ妄想や殺人者に襲われる妄想に悩まされ、最後は老人ホームに入り、枯れ木のように枯れ、施設職員も気づかぬうちに死んでいった。

彼女の一生が彼女にとって良き人生であったのかどうか、それは彦坂にはわからない。やえは人としてこの世に生を受け、結婚し、夫に先立たれ、晩年を独り生き、最期は誰にも看取られずに死んだ。この二行にも満たない事実だけが残っている。

彦坂は彼女の人生の最後の章に登場した端役の後見人にすぎない。彦坂は彼女の人生の大半を知らない。彼女の人生にも必ずあったであろう小さな光の季節を彦坂は知らない。彼女が語ることを忘れてしまった以上、それを知るすべがなかった。これも事実である。

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