【前回の記事を読む】「登山に考え方を変えられた」庶民の私が語る“庶民史観”とは
庶民目線で庶民史観というようなものを語ってみようじゃないか
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日本語としてどうも好きになれない一群の言葉がある。
嫉妬、妬み、嫉み、僻み、やっかみ。
微妙に違いながらこれだけ日本語として多岐にわたるのは、日本人という生き物なら殆どの者が持ち合わせているということであろうか。ガッカリもするし、感心もする。
シャバでモノにならなかった私が言うのはおかしいが、皆無とは言わないものの、この感情と殆ど無縁な人生を送ってきたのが私の取柄と言えば言えようか。
他人の何かをスゴイ・スバラシイと考えるからと言って、別にそれに嫉妬したり何かをダメとは考えたりしないのである。その人にも物にも、否定感情が湧かないのである。イイものはイイで、イイではないかと思えるのである。
人間らしい(?)感情と縁が薄い人生行路となったのは何でだろう、と考えてみる。おそらく、どんなに些事・雑事に追われようと、寝る前の一日の15分程度、「文学する」「哲学する」時間を設け、「日本人の平均的感情」を持つことを巧みに毎日回避してきたからかもしれない。
15分間の顔は、家族の誰にも見せないできた。自分でも、鏡に映せるような良い顔では絶対になかったという確信もある。日常の毒を、言葉を紡ぐことで発散させていたはずである。
誰にもお勧めできる話ではないが、同調強要社会への、庶民なりの一つの対処方法には違いない。