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「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」と唱歌に歌われても、すべて上手くいくわけがないのが人生である。羽根打ち枯らして、都会の片隅に燻るか、故郷に戻るか、選択に迫られる。

こころざしの有無は別として、都会に出た者がうらぶれて故郷に帰る場合、「なつかしきふるさと」側の対応は二極化する。「都会に出た以上は成功して帰れ」と、目線が冷たいふるさとがある一方、「まあ、しょうがないさ」とおおらかに受け入れてくれるふるさとがある。

独断・独善の批判は覚悟で大まかに区分けすると、前者は寒冷地域、後者は温暖地域となる。後者の気質に救われた博多出身の芸能人を例にとると、分かりやすい。出直しができたのである。一方、東北出身の友人は、前者の話をされることが多い。都会に出て上手くいかなかった者は、目線が冷たく受け入れ度も小さく、帰りづらいとのことである。こんな比較で満足できる話ではないが、私が寒冷地出身なだけに、身につまされる話である。

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もし大学時代に価値があるとすれば、「20歳前後の時間・時期」にこそ価値がある。

この時期、柔軟な脳みそで損得を抜きにラディカルに向き合う日々が培ってくれる原感覚こそは、間違いなく生涯に亘って残り続ける。大人でも社会人でもないこの時期の原感覚は、コアとしての膨らみを持ち、柔軟な地下茎を広げ、ビクともしないフィールドを持つ。

卒業以降、同じ分野のものごとを思考すべきとき、「自分のフィールドであり拠り所」として、何かに囚われることなく全体を包括できる一方で、本質を見抜く原点回帰ができ根源的に考えることが可能となる。

20歳前後に持つことになった思想と感覚の原質レベル、原論的世界観のレベルは、後になったからといって、そうそう超えられるものではない。説明が尤もらしくなり上手くなっただけで、輝度・照度は変わらない。

昨今、生涯学習という言葉が流行るが、職を持っての夜間部や中途学習、リタイア後の学習では、「ハウツーの便利学」の習得は可能でも、何かに囚われ何かに欠けるのは否めない。後になってから、ではダメなのである。

私個人にしても、この時期講義にも出ないで没頭した文学・哲学・宗教学、あるいは真剣に取り組んだ経済原論や法社会学の厚みに比べれば、後に学ぶ数学や心理学は何か決定的に不足しているものがある。

世の親が、小・中・高を含め子に学ぶことの必要性を説明するとすれば、このことだけである。「いつでもどこでも」ではなく、「そのときだけ」と愛情を込めて話すべきであろう。おそらくノーベル賞受賞は、「そのとき」に熱中した末のことであろう。