彦坂は定期的なひまわり荘への訪問時、一時間ほどいて和子と様々な話をした。最初の頃の会話はそのときどきに世間を騒がせているニュースの話題や、契約内容の再確認などであったが、彦坂は面会を重ねるうちに和子をもっとよく知りたいと思い、和子の生い立ちや彼女が失ってしまった家族のことなどを遠慮がちに聞くようになった。すると和子は、事実としてすでに過去形となった家族の物語を、愛情を込めて彦坂に語りはじめるのだった。

和子が彦坂に語った最初の家族の物語は、和子の幼少期の話からはじまった。

「……わたしは昭和二年三月九日、あなたの事務所のある街、大森で生まれました。大正デモクラシーという自由な時代が終わったあとの、まだ戦争の足音の聞こえてこない時代でした。わたしは『平和の時代の和子(わこ)』として生きたかったのですが、わたしの成長とともに次第に軍靴の音が街に大きくなっていきました。

昭和六年には満州事変が起き、昭和七年三月一日には満州国が建国され、昭和八年三月に日本は国際連盟を脱退しました。わたしは幼少時の記憶として、このころの世の中のざわめき騒ぐ光景をなんとなく記憶しています。街頭で号外を叫ぶ声をいまでもわたしは記憶しています。

わたしは昭和十一年二月二十六日東京に白い雪が降っていたことをたしかに憶えています。陸軍の青年将校によるクーデター未遂事件が起き、多くの赤い血が流れました。そして翌年の十二月には日中戦争が勃発し、その後太平洋戦争に突入していく時代に入っていきました。

わたしが大森で暮らした幼少期はまだ街は平安でした。大森には商店が多くいつも人でにぎわっていました。また海苔屋やたくさんの町工場もありました。大森海岸まで歩いていくと海であり、朝には船がぽんぽんと音を出して港を出て行きます。いまの平和島のあたりには料亭が立ち並び花街もありました。そうそう、京急の『平和島駅』はもとは『学校裏駅』という変ちくりんな名前であったことを、なぜだか楽しい思い出として憶えています。

毎年十一月には商店街の道に大きな酉の市が立ちました。とてもにぎやかでした。たくさんの屋台が立ち並び大人も子どももいそいそと夜店を見て歩きました。いまでも電球をつるした夜店の光景を思い浮かべることができます。わたしも両親に連れられ酉の市のにぎわいのなかを歩いたものです。わたしの一番しあわせな時代でした。」

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