【前回の記事を読む】環境問題を解決するために電気自動車開発に前のめりになる必要はない?
プロローグ
“杞人の憂”そして“地球人の憂”
一方、人間の寿命にも限りがある。50歳代、60歳代から寿命、死ぬことばかりを考えて生きていても何も楽しくはないだろう。自分に残された時間を考えて、一度しかない人生を楽しく幸せに過ごしたいと思うのが私のような凡人であれば当然ではないか。
飛躍するが、ガソリンの枯渇と人間の死は、今はあるがいずれなくなるものとしてみた時に似てなくもない。であるならば、自らの今ある環境を最大限に尊重して生かして、大げさに言えば命運が尽きるまで残りの時間を少しでも前向きに有効に使っても良いのではないだろうか?
いずれ石油は枯渇し、人間の寿命も尽きる。いつなくなるか、いつ死ぬかと先々の心配ばかりをしていても何も始まらない。何億年もかけて地下で作られた石油を最後まで有効に使い、クルマに限らず代替原料を見いださなければいけない。
二度目の石油はない!
大げさに言えば、人類は数億年かけてできた石油をたかだか200年ほどで使い切る。また再度石油ができるまで数億年地下に手を付けず時を待つなどということは現実的ではない。数億年先まで地球があるかどうかも分からない。
“杞人の憂”とは、昔の中国の杞の時代の人々が天が崩れて地上に落ちてくるのではないかと心配する話だが、今はその逆で地球の地下に埋蔵されている石油がなくなる心配を地球の人々がしているという、天地が逆になった“地球人の憂”である。
カーボンニュートラルが世界的に叫ばれる中、あと10年か20 年程度しか新車としては売れないガソリン車の開発の是非を問う声も近いうちに出てくるだろう。中国の急激な電動車化という意向も世界中の自動車メーカーは無視できないのであろう。
私は思うのだが、地球最後の1滴のガソリンまで使ってクルマを走らせ、ガソリン車が作ってきた150年ほどのモータリゼーションが終焉を迎えたとしても、その時には電気自動車、水素自動車など、ガソリン車に代わる新しいクルマの時代の幕が上がるように世界中の自動車メーカーは研究開発をしているわけである。
世界中の自動車メーカーの英知は間違いなく脱ガソリンに向けられている。電気自動車の世の中になったらクルマはみんな同じでつまらなくなるのではないかという、私のような世間の狭い人間の心配などは、おそらくすぐ近い将来に吹き飛ばしてくれるであろう。だから私はとても楽しかった50年前の思い出に深くつかりながら妄想をしてしまう。
“地球最後の1滴のガソリンで振動を感じ、臭いを嗅ぎ、音を聞くガソリンエンジンを回したい!”と。