8 因果
仏教の因果という言葉を物理的な原因結果だと考えている人が多いのですが、そうではないと私は考えています。仏陀のいう『因果』の因とは業(kamma=身口意の行為、特に想い)、果とは現象です。自らの想いが、自らの環境、現象として現れてくる、という法則のことを『因果の法』と呼ぶのです。
スッタニパータにこうあります。
生まれによってバラモンとなるのではない。
生まれによってバラモンならざる者となるのでもない。
行為によってバラモンなのである。
行為によってバラモンならざる者なのである。
行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。
行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。
行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。
行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。
かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。
世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。
生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。
─進み行く車が轄に結ばれているように。
熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによってバラモンとなる。これが最上のバラモンの境地である。
三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は
諸々の識者にとっては、梵天や帝釈(と見なされる)のである。
ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。
─ダンマパダ650~656
この業(行為)とは、身・口・意の行為です。ここで、『三つのヴェーダ』という言葉が出てきますが、このバラモン教の用語を
仏陀は自分の体験からなる三明という意味で使っています。