【前回の記事を読む】仏教の因果は「原因・結果」ではない?仏陀が説いた『因果の法』とは

第2章 仏陀の言葉の本当の意味

8 因果

『縁起をよく見る者』というのは、kamma(行為)が因であるということを知る者という意味です。行為が因であるという因果の法の中で、特に苦の()って起こる原因に特化したものが縁起の法と言えます。十二縁起です。

苦を起こすkamma=業=行為について突き詰めたのが十二縁起です。そして、苦の()って起きる根本原因を、「無明」「行」としました。行とは、行為、潜在的形成力、業力のことです。無明の行為により苦の集積が起こると見極めたのが十二縁起です。

苦しみはつねに因縁からおこる。

そのことわりを観ないものだから、それによってひとは苦しみに縛られている。

しかし、そのことを理解するならば、執着を捨て去る。

けだし、外の人々はその大きな激流を捨てないのである。

─感興のことば第16章24

この言葉の意味は、こうです。

苦しみは常に原因によって起きている。その原因とは十二縁起の、無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有であり、その縁起の理法を洞察できないものだから、それらの原因によってひとは苦しみに縛られている。

しかし、この縁起の理法を理解するならば、執着を捨て去る。けだし、外界に気を取られている人々は外界に対して記憶の束が反応する思考の激流を捨てることがないからである。ダンマパダにはこうあります。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う

─車をひく牛の足跡に車輪がついてゆくように。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う

─影がそのからだから離れないように。

ここでは、明らかに、心が主であり、ものごとはその結果であると言っています。仏陀は、業=身口意の行為の中でも意業、すなわち想いが最も重要であると言っています。想いがすべての因であり、現象は結果なのです。

今までの仏教なるものに親しんできた人には、縁起や因果という言葉をまるで違った意味と考えている人が多いと思います。私もそうでした。

しかし、仏陀の真意は、『想いがすべてを作る』です。中部経典『三明ヴァッチャ経』に、異教のアージーヴァカ派について、こういうことも書かれています。異教のアージーヴァカ派というのは、運命決定論(宿命論)、つまり、自己の意志による行いはなく、一切はあらかじめ決定されており、定められた期間流転する定めである、という考えの派です。