【前回の記事を読む】仏陀が説いた「縁起」は苦の縁によって起こる原因を意味する
第2章 仏陀の言葉の本当の意味
6 煩悩
一般的には、煩悩とは欲望のことだと思われています。欲望をなるべく少なくしていくこと、足るを知るということが煩悩をなくしていくことだと言う人は多いです。
ところが本能も欲望です。食欲を否定すると死んでしまいますし、性欲を否定すると人類は絶滅します。だから、欲望はなくならない、煩悩はなくならないものだろうということになっていきました。もっと時代が下れば、煩悩はあるがままでよい、とか、煩悩がなければ菩提に近づけないとか言われ始め、煩悩即菩提と言う言葉が流行していきます。
しかし、仏陀はそうは言いませんでした。煩悩を滅して解脱した、と言ったのです。
煩悩とは束縛のことです。精神の自由を束縛するもの、本来の無量の精神を限定させるもの、これが煩悩の本質です。
精神に苦をもたらすもの、それが煩悩です。
自由をその本質としている精神にとって、束縛は苦なのです。
故に、煩悩の別名は、『結』であり『縛』なのです。
根本的な煩悩に、貪(raga)・瞋(dosa)・痴(moha)の三毒があります。ragaは貪欲。dosaは嫌悪。ⅿohaは迷妄です。貪(raga)とは何でしょうか。
貪(raga)は楽受から生まれます。つまり、快適な感受(感覚)から生まれます。快適な感受は、快楽の記憶となります。快適な感受は愛着を引き起こします。愛着する対象に精神を固定させてしまいます。まさしく、束縛、縛、結です。精神から自由が奪われます。頭でわかってはいるけどやめられないというのは、悪い結果になるとわからないからやめられないのではなく、悪い結果になるとわかっていても、一点に縛られ固定化されてしまっているのでやめられないのです。
瞋(dosa)は、苦受から生まれます。苦受とは、不快な感覚です。苦受が苦受の記憶となり、嫌悪となります。苦受の対象を嫌悪し、避けよう、防御しようとする働きになります。本来自由な精神に、嫌悪の壁が次々と建てられていきます。その嫌悪の壁から成る閉鎖空間に閉じ込められてしまうのです。束縛されてしまうのです。嫌悪するものを排除しようとすることから、嫌悪が憎しみや怒りになることがあります。ですから、瞋(dosa)を怒りと訳すことも多いですが、本来は嫌悪です。貪(raga)と瞋(dosa)は、正反対の感情ですが、どちらも自由な精神を束縛してしまうのです。
痴(moha)は、正しい見解でないこと、邪見解から生まれます。妄説や偏見などはすべて痴(moha)です。私たちは実に様々な偏見に囲まれて生きています。無意識にその偏見の虜となっています。人種差別、男女差別、地域差別、学歴差別、職業差別、人間の偏見にはきりがありません。これらのことは、痴(moha)のほんの一部です。痴(moha)とは、分離の思いを生じさせ、嫌悪または愛着の感情を生じさせるものです。また、無常の理や因果の法をくらませてしまう妄説も全部、痴(moha)です。