日米和親条約と日米修好通商条約
今度の交渉の場は横浜村に建てられた仮設の応接場でした。ペリーはアメリカ条約草案と清国と結んだ望厦条約を参考に提出しました。望厦条約は、イギリスが清国とアヘン戦争の結果として結んだ南京条約を参考としてアメリカが最恵国待遇を主張して得た条約でした。
したがって平和・親睦・通商の三つを含んでいましたが、清国がイギリスに南京条約で認めた内容とほぼ同じで、関税自主権の喪失、治外法権などを定めた不平等条約でした。
一八五四年三月に日米和親条約がまとまりました。全一二条の条約のうち、主な内容は①下田・箱館の開港、②海難事故の救助経費を双方が負担、③漂流民と渡米人民の(人道的)取り扱い、④アメリカ人は日本の「正直な法度には服従する」、⑤一八ヶ月以降、アメリカの領事または代理人の駐在を許可する、というものでした。
この条項に従って、一八五六年、ハリス総領事が来日、交渉のすえ一八五八年に日米修好通商条約が締結され、横浜など五港の開港が取り決められました。
交渉条約と敗戦条約
日本開国は、戦争などによる条約ではなく、日米和親条約もそれに基づく日米修好通商条約も交渉条約で、国際法の最恵国待遇により、他の列強とも条約を結びましたが、その内容は「同等以下(同等に扱う)」でした。
日米和親条約に対してはオランダとロシアが要求、日米修好通商条約に対してはオランダ、ロシア、イギリス、フランスが要求し、幕府は計五ヶ国と通商条約を締結しました。両条約は明治維新政府にそのまま継承され、条約改正まで続きました。
一九世紀に日本と同じような立場にあって開国した清国は、交渉条約でなく、前述しましたように、すべて敗戦条約でした。交渉条約は、双方の議論の結果であるのに対して、敗戦条約は勝者が敗者に力ずくで押しつけるものでした。敗戦条約には「懲罰」として賠償金支払い義務と領土割譲が伴うと同時に、有形無形の要求の圧迫が伴いました。賠償金支払いは富が流出し、財政赤字を招来するものでした。領土割譲は政治的な怨念を生むもので、必ず後世での報復が待ち受けているものでした。
清国は、アヘン戦争の敗戦による南京条約(一八四二年)、第二次アヘン戦争(アロー戦争)の天津条約(一八五八年)と北京条約(一八六〇年)、清仏戦争の天津条約(一八八五年)、日清戦争の下関条約(一八九五年)、そして北清事変の義和団議定書(一九〇一年)とすべて敗戦条約が続きました。そのつど、懲罰としての賠償金と領土割譲が伴いました。
しかも、これは一ヶ国との条約だけではなく、以下右ならえと欧米列強四~五ヶ国との条約が結ばれ、国力が衰退してしまいました。その結果、前述しましたように清国は一九世紀後半から二〇世紀初めまでに、欧米日の植民地主義・帝国主義の犠牲者となり、半植民地化されたのでした。