序章
「うーむ」宇垣はしばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「いま、あんた方は昭和六年の三月事件の成功でもって、新たな歴史を始めたいと言ったが、それは無理だ。あの計画は成立しない、必ず失敗するよ。あれは前の年の秋頃から、陸軍の若手の桜会を牛耳っていた橋本欣五郎や右翼の大川周明あたりの発案で始まったものだ。そのうちに政財界からも同調者が出て、一時はかなりの拡がりを見せた。
しかし、具体化の段階となると、とたんに陸軍内部から反対の声が高まってきた。当たり前の話だ。軍事力を行使してクーデターを起せば、それはまさに反逆罪だからな。全軍をあげての支持がなければ成り立つわけがない。だから、わしは三月十日には、はっきりと計画の中止を命じたのだ。もしあんた方が、わしに政権を担当させ、我が国の針路を変えさせようと言うのならば、別の機会を選ぶべきだな」
宇垣はむしろ諭すような調子で告げた。思いがけない拒否に、汪とボースは驚いた様子だったが、しばらくの沈黙のあと汪が言った。
「では別のチャンスについて、閣下はどのようにお考えですか?」
「それは言うまでもなかろう。わしが最も政権に近づいたのは、六年後の昭和十二年一月二十四日、わしに組閣の大命が下ったときだ。我々の準備はすでに整っており、客観的な状況も充分に熟していた。にもかかわらず、予想もしなかった陸相の選任拒否に遭遇して、むざむざと大命拝辞に追い込まれてしまった。まことに痛恨の極みであったよ」
「ではもし、一九三七年に宇垣内閣が誕生していたら、歴史は大きく移り変わったということですな」
「その通りだ。わしが辞退したあと、陸軍大将の林銑十郎内閣が発足したが、わずか四ヶ月で総辞職した。そのあと六月五日には近衛文麿の第一次近衛内閣が発足するが、その一ヶ月後の七月七日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍の衝突が起き、それが発端で泥沼の日中戦争が始まっておる。もしも、十二年の一月からわしが政権を握っておったら、その後の経過はまったく違っておったに相違ない」
「つまり、盧溝橋事件は現地で解決され、それ以上の拡大はなかったのでしょうか」