序章

やがて二人は席に戻り、汪が語りかけた。

「これから、なぜ閣下にここにお出で願ったのか説明します」

汪は改まった口調で言った。

「うむ、聞かせてもらおう」

眼を見開いた宇垣は、姿勢を正した。

「産業革命で国力を急増させた西欧諸国は、植民地の獲得に乗り出し、世界各地に侵略の手を伸ばしました。アジア地域でも、インド、中国、東南アジアなどが次々とその犠牲となり、わずかに日本だけが近代化に成功し、独立を維持していたのです」

宇垣は軽くうなずきながら聞いている。

「第一次世界大戦のあと、民族自決(じけつ)の風潮が高まりましたが、植民地を支配する欧米の宗主(そうしゅ)(こく)の力はまことに強大で、各地の独立運動はほとんど見るべき成果を得られませんでした」

汪は淀みなく述べている。

「アジアの大国といえば中国とインドです。本来ならば、この二国がまず統一国家を形成し、独立運動の先頭に立つべきでしょう。しかし、そうはなりませんでした。我が国においては、一九一二年の二月に清朝が倒れ、袁世凱(えんせいがい)が中華民国大統領に就任しましたが、近代化や国土統一は前途遼遠でした。私が蒋介石(しょうかいせき)と手を組んで新国民政府を樹立したのが満州事変の翌年の一九三二年で、ようやく統一国家への足がかりができたわけですが、このあたりの経過は、閣下はよくご存知だと思います」

汪の言葉に、宇垣は大きくうなずいた。

「そうだ。わしは大正十三年から昭和六年まで、五代の内閣で陸軍大臣を務めたからな、そのあたりの事情はよく知っておるよ」

「そして、閣下が陸軍大臣を辞め、朝鮮総督に就任されて間もなく、一九三一年九月に満州事変が起きました。それからあとの日本は、戦争に継ぐ戦争で現在に至っております。しかも、一九四一年十二月からの対米英戦は、日本政府の意図に関わりなく、そのまま植民地解放戦争に移行したのです」

汪がそのように述べると、ボースがあとを引き継いだ。

「インドの独立運動は、まだ初期の段階です。しかし、日本軍がマレー半島を一気に駆け抜けてシンガポールを占領したことで、イギリスの権威は地に落ちました。かつてのような盤石のインド支配は、もはや不可能です。もし仮に日本が敗退しても、インドの独立は必ず達成されるでしょう」

ボースの言葉にも二、三度うなずいて、宇垣が言った。

「あんたの言う通りだ。アラブ地域やアフリカはともかくとして、アジアの欧米植民地はほとんど解放されることになるだろう。さらに我が日本軍は、多大の犠牲を払いながら何の代償を得ることなく立ち去ることになると思うが、何とも皮肉な話だよ……。ところで、わしの役割は何だったかな。まだ聞いておらんが」

宇垣はいわば達観したような口調で言う。汪がそれを受けて続けた。