「明智にはわるいことをした。でもまぁ、信長は天子を殺そうとする、明智は天子と仲がよかった。だから明智は都合がよかった。明智はいい奴だったよ。身近な人間だけにはな」
「どういうことですか? 『だけには』とは」
「嫌いな人間には刀を振りかざす冷めた男よ。それでも人を利用するのが巧みな賢い奴でのぉ。私が明智に体を返してすぐに殺されてしまってな。明智にはわるいことをしたから、次の世には大久保という男に生まれ変わらせてやった。私の力じゃないがのぉ」
純一は話半分で聞いていたが、老婆の微動だにしない黒目が〈あれ? 本当のこと〉と思わせた。それは自分の瞳に語り掛ける圧を感じたからだ。
「大久保? 大久保彦左衛門」
「彦左衛門だったかなぁ? たしか利通といったかな」
(この話、本当かも……作り話にしては面白すぎるし、噓をついているにしては話によどみがない。それに目だ! 瞳が噓をついていない。しかし、この婆さんは一体何者だ。本当に神様なのか? まぁ、信じる者は救われるというし、暇つぶしになるかな)
純一の意識が尿臭に戻った。鼻がバカになり臭いが気にならなくなっていた。立ち上がるとこれ見よがしに腕時計をチラリと見る。そして、退屈な日々にわずかな楽しみをくれてありがとう、という謙虚な思いを込め、「いい話を聞かせてもらいました。次に会える日を楽しみにしています」と老婆に、いや、神様に頭を下げ、軽やかな足取りで家へ向かおうとしたときだ。
老婆は〈一応、言っておこうかな〉程度の口調で純一の背中に語りかけた。
「そうそう、織田信長の未来は死んでいたが、それは行く末を見に行った日の織田信長の未来じゃ。極端な話じゃが、次の日に未来を見に行ったら別の織田信長が存在していたかもしれん。未来は一日で変わることもあるからのぉ」
「そうなんだ。なんかややこしいですね」
純一はさほど気に留めず軽く受け流してその場をあとにした。老婆は、尿臭が上着に染み込んでいないかを確認しながら歩く純一の後ろ姿を、優しく見送った。
「あっ、いかん、ラナンキュラスの花言葉を教えるの忘れたわ。まぁ、いいか」
そして、眼前にある花と一緒に、透けるように空間と同化し、老婆は消えて行った。