(うれ)(びと)(うれ)(がみ)

神が人間を創った理由、おそらく、尊いなにかがあるに違いない。

神が人間に託したもの、おそらく、崇高な問いかけがあるに違いない。

これは物語である。

そう、単なる物語ということを、言っておこう。

一、必然

「階段を上りきったと思ったら、浮浪者か……」

真下(ました)純一は眉根をよせ、浮浪者に聞こえないようにつぶやいた。電柱横で背中を丸め、うずくまる浮浪者は、巣の中心にいる蜘蛛のように、じっと、ただじっと、なにかを待つようにそこにいた。

(可哀そうに、コロナショック以降ふえたなぁ、灰色の人。嫌だなぁ、前を通るの……。浮浪者ってなんで灰色に見えるんだろう、まとっている服装のせいだろうけど、そう思うのは僕だけかなぁ?)

一瞬、向かい風に押されるような歩調になるが、進むしかない。この先に我が家がある。浮浪者に近づくにつれ、尖った尿臭が鼻腔を刺す。携帯必須でマスク着用、これが世の中の秩序となった。息苦しい時世だが、純一は屋外で人との接触がない場合、無理にマスクは着用しなかった。そのマスクを背広のポケットから取り出し、顔をそむけながら着けた。

「お帰りなさい。今日も一日、お疲れさまでしたね」

しわがれた声の優しい口調に、純一はその浮浪者の前で足を止めてしまった。同時にその言葉に虚をつかれ、

「た、ただいま、です」

取り繕った愛想笑いで返した。浮浪者を無視して通りすぎることができない、お人好しな自分が歯がゆく、純一は心中で自責する。

(女の浮浪者!)

純一は怪訝(けげん)な顔をした。まず、浮浪者が老婆であること。自分でもわかっていた、浮浪者=男という先入観を。そしてもうひとつ、あまりにもミスマッチなものが老婆の前にある。

(メルヘンか?)

「旦那さん、あんた今、私のことを浮浪者と思ったじゃろ。ちなみに今はホームレスという立派な名称があるから注意してね」

(たしかに。でもその言葉が世の中でのホームレスっていう地位を確立しちゃった気がするけど)

純一はそうは思いながらも、「えっ! い、いえ、そんな失礼なこと……」と咄嗟(とっさ)に噓をついた。

「おかしいのぉ。『好きでもなく、生きて行く〈(ため)〉という義務でやる仕事が終わり、混み合っていて必ず座れないバスに乗り、痴漢に間違われないように神経をすり減らす満員電車を乗り継いで、家への近道であり最後の難関、四十八段ある赤い手すりの階段を上りきったと思ったら、なんと浮浪者がいるよ! 汚い浮浪者があんなところに座ってなにしてるんだ』と声が聞こえたんじゃがなぁ」

思っていたことを見透かされてうろたえる純一の顔を、老婆は上目づかいに覗き込んだ。純一はネクタイを緩め、ハンカチで汗のない額を拭う。