四、妄想
風呂上がりの冷えたビールは格別だった。真下純一は帰宅後、風呂から上がりリビングのソファに沈み、喉ごしに英気を補充している。商社勤務といっても、海外を飛び回って部下に的確な指示を出し、ときにはガッツポーズなどをする〈熱い男〉とは違う。社会人の第一歩目から経理一筋、世の中がイメージする典型的なビジネスパーソンだ。
純一は、自分は人見知りでコミュニケーション能力がないから、黙々と働く経理職が自分には向いていると、経理畑を選んだ。だが実際は純一のイメージとは違い、しょっちゅう各部署から領収書を社員がもってくる。当然、領収書の金額を詮索するための会話を必要とした。
「そもそも、コミュニケーション能力の低い人間は、自分がコミュ力が低いと気がつかない」
と佐竹雄作に言われたことがあった。経理人としては優秀で、会社から経理畑から経営管理畑に誘いがあったが、気が乗らず断ったこともある。目立ちもせず地味でもない。会社にとってちょうどいい存在だ。
前年のコロナショックの際もリストラされずに済んだ現状がある。
(リストラされていたら別の人生が始まってたのかなぁ。それもよかったのかもしれないな。タラレバの話か)
と不意に考えることがあった。
北欧風ガラス製ローテーブルには、冷えたビールと、皿に盛られた枝豆とそのさやが規則正しい位置関係で置かれている。純一にとって、テレビを見ながらスマホをいじりビールを楽しむ、これが一日のうちで最もリラックスできる時間だ。
三十五年ローンで購入した二階建て3LDKの一軒家、家族の宝だ。三人家族にしては贅沢かもしれない。中学三年生になった一人娘が、二階の自室に入ったらなかなか出てこないので、純一は寂しくてしょうがない。ときどき、幼かった娘と過ごしたアパート暮らしに、戻りたいと思うこともある。
その愛娘はまだ学校から帰って来ない。部活でいつも帰りが遅い。といっても部活の終了時間が遅いのではなく、そのあとのおしゃべりタイムの終了時間が遅いのである。
最近、純一の習慣が増えた。娘の気配が家中に漂うまでは、壁掛け時計の分針を五分おきに確認すること。
「もう少し早く帰って来い」と、ひとこと言うと娘から〈倍返しだ!〉となる。そして、とうとう娘に丸め込まれてしまうことが多い。しかし、丸め込まれることによって、娘の機嫌を取っている父親としての喜びもあった。
キッチンから料理音が聞こえてくる。妻の里美はいつも、純一が帰宅する少し前にパートから戻ってくる。だから、夕食の仕度をするのは一般家庭から比べると遅いが、純一はそれで文句を言ったことはない。三十五年ローンを一人で返すのはたいへん厳しい。里美の協力は必要不可欠なのだ。その負い目からか、夕食がテーブルに並ぶのをいつも静かに楽しみに待っている。