【前回の記事を読む】つながりの糸が、兄家族からまた一歩。90歳を迎えた母との絆
長男の大きな支え
別に住む長男は、絶えず私の羅針盤になってくれました。弟の病気とその対応について、父の病気とその対応について、複数の考えや対処を提示しながら、弟や父と同居している母であり妻である私が、ものの見方や考え方を選べるようにしてくれたのです。対処法はそこから生まれてきますから。
弟への対応は、病院選びの下見に始まり、病院への同室(当初は父母と兄が診察を共有)、服薬のこと、病状に対する家族の構え、今はどんな力が必要でどんな見通しを持って育んでいくかなどを、現状を踏まえて丁寧に教えてくれました。「僕は一緒に住んでいないから言えるんさぁ」と笑いながら。そう言いながらこっそりと精神保健福祉士の資格をとってくれていました。
父との対応は、その前に夫婦という問題があるので一歩引いていました。私も長男に介入してもらうのは、今までの良い親子関係まで壊してしまうし、これ以上の世話はかけられないと思いました。けれどももうぎりぎりになって、長男に電話口で吐いてしまいました。
「『私のためにも入院して』と喉まで出てるけど、この言葉を夫婦として突き詰めたら私のエゴや。そうやからお父さんには通じないと思う。昔も今もずうっと心に置いている子からの言葉やったら……」と。仕事を終えて来てくれた長男は、父親が聞ける状態になるまで待って、「あなたの子」としての思いや願いを伝えてくれました。
夫は二人の子をいつも大切に思っていましたから、耳を傾けました。夫は覚えてないと言いますが、そのことが大きく入院につながったと私は思っています。長男は、「平常は(側にいるのは母だから)母を援助する位置で、いざというときには子の立場で言葉を届ける」というわきまえを持っていたのだと気づきました。
長男夫婦は、中一になったばかりの下の子(上の子は家を離れたので)を連れて、夫の病院まで見舞に来てくれました。私はびっくりしたのですが、大事なことは子どもたちと共有するという、二男のときと同じスタンスでした。長男の妻も同じ考えでした。
だから二男の帰郷直後から、こちらの状況や気持ちを確かめたうえで、今まで通りの自然な形―四人揃って我が家を訪ねてくれたのです。また、四人揃って私たちを温かく招き入れてくれました。
夫は入院直後、長男とともに訪ねた私に「何もかも調べられて、こんなところへ入っていられるか。すぐに出せ!」と怒鳴りました。私が初めて発した「あなたの行くところはここ以外どこにもない! 治すまでは帰ってもらいたくない!」の強い語調に、夫は黙ってしまいました。長男も初めて見た母の姿だったでしょう。
夫は一番苦しい時を乗り越えてくれました。杉と檜の区別もつかない状態までなってしまったことを思い出し、病院内の広い庭の草木や花々を写真に撮り名前を調べ始めました。次は院外へと体を動かしました。調べた数は一九八種類。看護師さんや患者さんたちと仲良くなっていきました。
内観(治療の最終段階)を終えて退院も間近な頃、散歩をしながら交わした言葉は忘れてしまいましたが、その情景は焼き付いています。元のあの人が帰ってきました。けれども喜びは束の間、希死念慮にとらわれるようになった夫は、別の病名が付き再入院になってしまいました。
断酒会三重大会での発表日が迫っています。まだ面会も電話もできなかった私は、夫の気質や思い(既に準備はした。頼まれた責任は果たしたい。それができないのならば一刻も早く運営者に知らせ迷惑をかけない)を考えると、きちんと主治医から可否を聞いて、運営者に連絡したいと考えました。代役が可能か、代読でもいいのか、分かれば夫の気がかりも少なくなるでしょう。
看護師さんに何度も主治医への連絡を頼みましたが、何度待っても返答はありませんでした。そのうちに、薬が増え副作用も手伝い、読み書きや歩くことさえおぼつかなくなっていきました。
長年ともに暮らしてきた私は、「離脱の反動が夫の気質と相まって強く表れたということはないのですか? 離脱症状の一つではありませんか?」と、主治医からの経過説明時に勇気を出して尋ねてみました。専門家の診断・現治療に間違いないとの返答でした。患者や家族の声に耳を傾けない精神科医に疑問を持ち始めました。
体がおぼつかないのに、期限がきたかのように退院を告げられました。これからの自宅生活の危うさを思うと、主治医が言う治療効果や見通しと、この現状とのギャップに納得がいきませんでした。
私は長男の的確な助言を得て、ポケットにボイスレコーダーを忍ばせて、三度目の主治医との面談に臨みました。折れずに最後まで向き合えたのは、ポケットで握りしめた長男の分身、ボイスレコーダーのおかげでした。結論は、主治医を変えるという判断です。