【前回の記事を読む】「私のためにも入院して」と妻が夫に言えなかった悲しい理由
縦の糸、横の糸
1 医療の中で三重の病院とつながれるようになってから、私たちはさまざまな人と出会うことになります。主治医は、当時の病院長H先生でした。H先生は、先駆的な精神科のチーム医療を推し進めておられるドクターで、他県からもたくさんの人が見学に来ていました。
二男の調子がいいときは、丁寧に向き合って、多くの時間をかけて尋ねていきます。二男がぽつんと発した単語からさらに適切な質問をされて、もつれている糸を解くように二男に返します。二男は改めて考えて答えます。聞いてくれる人だな、いい加減な返事はできないなと二男は思ったでしょう。調子の悪いときは、今日は辞めましょう、と私たちを帰します。
後になって二男は、緊張したと言っていました。慎重でありながら大胆に見極め、当事者に添いながら厳しくもあるドクターだったと思います。過去形で書いたのは、H先生はご自身の病気を押して診てくださり、お亡くなりになる直前までの二年近くお世話になりました。私たち家族に治療への道筋を示して下さった院長先生に、お礼の言葉も伝えることができませんでした。
二週間に一度の診察日は、長男も参加を希望してくれて親子四人で受けていましたので、診察室にはケースワーカーの足立さんも含めて六名が治療の共有をすることになりました。私は何も知らなかったので驚きました。
けれども毎日のように起こる不安定な病症を受け止めきれない私の不安や問いに対して、足立さんが辛抱強く受け止めてくれました。単に医者と患者をつなぐだけでなく、チーム医療の要になって私たち家族に希望を持たせてくれました。プロの目で、何もかもおぼつかなく対人関係が結べなくなった二男でもやれそうな場や役割を考えてくれました。
それは「フレンズ」という自主学習の場で、学校へ行けない女子高生(洗われるような目をしていました)の英語の勉強をみるという内容です。二男は役に立てるのが嬉しいのか、素敵な女の子(?)に会えるからか、家から津までの片道を、自転車で一時間、JRで四五分、駅から登り坂を歩いて一時間の距離を一人で行くようになります。山あり谷ありの田舎道を漕いで体力がついていきました。
自転車と徒歩のスピードは、変わりゆく自然や生活の匂いや佇まいなどと対話する機会を作ってくれました。週に一回のこの活動は、次第に二男の楽しみや励みになっていきました。二年間続けられた経験は彼の大きな財産です。
今日の日を終えて揺られて無人駅「お帰り」と言おう月と一緒に(二〇一三年八月)
道端の夾竹桃の花は赤君受け止めしほのかな愛を(二〇一四年七月)