はじまり
私たち三人が一緒に暮らし始めたのは、二〇一一年(平成二三年)一二月二八日です。私たちの二男、潤が統合失調症の診断を受け、神奈川県から三重県に戻ってくる日からです。そこから私たち三人は新しい生活を踏み出し、八年の月日を重ねてきました。
私たち夫婦は二人とも定年より早めに退職をし、夫、俊郎は念願の山仕事にかかりました。私は目標もなく、とりあえず土地を荒らすと恥ずかしいという世間体から畑仕事をしました。やっているそぶりでいいやというくらいの気持ちで始めたのですが、何もかも知らないことだらけでした。
図書館で本を借り、読んではメモを繰り返し、やがて小さなノートが一冊できる頃、畑が花壇のように思えてきました。「いろんな野菜が作れたらいいなあ」という気持ちが湧いてきて、いつの間にか図面を描いていました。「薬を使わずにしたいなあ」と、いつの間にか科目別の輪作計画を立てていました。私の手仕事でもできる小さな一六個の畑と、それを取り囲む雨の日もぬかるまない作業道ができ上がっていきました。
ノートが二冊目の頃には、粘土質の土や石を掘り起こして、いい土に変えようとしていました。夫は山へ、私は畑へという生活です。
そんな折、病んでなお東京に留まろうとした二男が戻ってくれました。この日に、偶然に、戻ってくれたのです。東京を拠点にして生活や仕事をしていた二男は、さまざまな状況を乗り越えようと、自分を追い込んでしまいました。東日本大震災の頃から病気の発現があり、幾度も大きな波に襲われていたのだと思いますが、自身には理解できないままに窮地を乗り切ろうと頑張ったのだと思います。
私たちも彼が思春期を過ぎてから一五年間、自己判断で自分の道を開いていましたから、「この子は大丈夫、今に辛さの底から浮かび上がる」と、調子を崩しているのを知りながら、精神疾患への無知と、親の勝手な思い込みや試練を乗り切ってほしいという願いとで、早期に病院へ連れていくことができませんでした。
特にかつて一度帰省したのに、また送り出してしまったことを強く後悔しました。この後悔の念や申し訳なさばかりが、その後の私を長く縛っていきます。同じような思いを抱く人や、前向きに捉えていく家族や支援者に出会うまでは。