【前回の記事を読む】「何?」統合失調症に苦しむ息子が興味を示したものは…

音楽との別れ……そして繭の中へ入る

 

東京から神奈川県相模原に移る際、友人にいくつか楽器を譲り、相模原では私の目の前で大切なキーボードをたたき壊しましたが、最後の一つになったショルダーキーボードと機材は、アパートの整理に行ってくれた長男が持ち帰ってくれました。しばらく父と作業に出たり、これまで仕上げてきた音源に歌を吹き込んでCDにしたりしていましたが、生活できる段階ではありませんでした。

日々刻々と気持ちが変化しているようで、見ていても辛さばかりが増えていきます。けれどもこの状況は、まだ小康状態だったのです。少し元気になると父母の手伝いをしたり、私の絵日記『夕陽日報』に自分も絵や文を書いたり、仕事に就こうと動いたりしましたから。でもこれが、今から思うと第二の危険な壁だったのです。

薪ストーブの前で、久々にゆったりとギターで歌いかけ、私も一緒に口ずさんだ穏やかな夜の翌日、二男は残る音楽の機材すべてを町の美化センターへ捨てに行きました。その日は三月なのに凍雨の降る冷たい一日でした。私は、楽器を見送りながら、二男が十数年かけて積み上げてきたものや、楽しかった過去もすべて捨てるようで、息子が消えていくように思いました。

「それはお前の感傷だ」と夫が吐き出すように呟きました。今なら私にも分かります。夫は、すべてを飲み込みました。自他の命に関わらぬ状況ならば、二男のどんな選択も行為も行動も、黙って受け入れる覚悟をしていました。それがどういうことを意味し、どんな言動が求められるのか、その行動がいかに難しいか、私には分かっていませんでした。

私はおそらく間違った対応をしていたのだと思います。回復へ向かうためのこの時期の壁(病気へと向かう壁を第一の壁としたら、本人にとって更に厳しく辛いと言われる第二の壁のこと《中井久夫精神科医の著書より》)を前にして、「二男と生きる」ことの本当の中身が分からず、「ただ子を思う」という私的感傷を優先させていました。更に壁を高くしたのです。

これまで自分がとったいくつもの言動のまずさや認識のズレ、常識への縛りや一方的な見方に、私もだんだんと気づいていきましたが、その時は分かったつもりでも、更に時が経つと新たに見えてくるものがあります。この夫の言葉も、現在直面している問題を考えていたら、ふっと浮かんできました。連られて当時の思いも甦ってきました。

 

閉ざすとは自分なくすとはカレンダーがないということか今日さえ遠い(二〇一二年五月)

今ならNGですね。今日がないくらい、一瞬一瞬に翻弄されても活動できなくても、生きていること―生命自体が時を刻んでいるのに、ちっとも分かっていませんでした。ここには、子と生きるという親の覚悟から遠く、無と感じる私の感傷があるばかり……。