【前回の記事を読む】衝撃!人類が農業を始めたのは、狩猟ができなくなったから…

中世の農業

古代の終わり頃には、アルプス以北のガリア・ゲルマニアがローマの支配下に入りしたが、その影響で当時の地中海世界で主流であった二圃制(にほせい)(二つの圃場を使った輪作)の農業が北ヨーロッパで広まりました。五世紀の北ヨーロッパは、森林におおわれ、そこに牡牛が放牧されていましたが、時折パッチ状に開墾され、そこで一時的にコムギ、オオムギ、ライムギなどがローマの二圃制農業で、つまり、一年目の秋播き作物とその後の一年間の休閑(きゅうかん)という形式で耕作されていました。

中世になりますと、より北ヨーロッパの気候風土(夏雨型)に適した三圃制農業(三つの圃場を使った輪作)が代わって行われるようになりました。この三圃制農業は、農地を冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)に区分しローテーションを組んで耕作する農法で、農地の地力低下を防ぐことを目的としており、休耕地では家畜が放牧され、その排泄物が肥料になり、土地を回復させる手助けとなっていました。

初年目には秋播き冬コムギかライムギ、二年目には春播きエンバク、オオムギ、エンドウ、レンズマメ、ヒヨコマメなどが育てられ、三年目は休閑でした。紀元七七〇年頃のフランク王国のカール大帝がこの三圃制農業を強力に推し進め、このことは「西ヨーロッパ中世における偉大なる農耕の新機軸」といわれています。

三圃制農業の有利性は、作物生産を高め、飢餓の危険性を低くし、労働と家畜の牽引力(けんいんりょく)を平均的に分散させ、マメ類によって食の質と地力を改善することにあり、馬の飼料に用いるエンバクの生産を豊富にしました。この三圃制農業は、少なくともイギリスまで普及し、中世ヨーロッパ中で行われており、後の混合農業につながる農法でした。

この中世の一〇〇〇年間に犂もまた改良され、六世紀までに重い犂が、また(すき)(どこ)(土と接する犂床の先端に鋳物の犂先を付け、起こした土を返すへら)付きの犂が一一世紀までに導入されました。この技術革新による深耕によって作物の栄養分が到達できる根圏を広げることができました。

また牛は動きが遅く、さらに重い犂を使うには八頭以上も必要でしたので、馬が使われるようになりました。ヨーロッパにおいては、馬の蹄鉄が一一世紀までに使われるようになり、道路上の運搬や、重い鎧を着た騎士を運ぶことに使用されるようになりましたが、中国からパッド入りの首当てが導入されるようになりますと、馬による犂耕が一般化しました。