作物収量については荘園や修道院の記録にありますが、中世を通じて収量は低いままで変化はあまりありませんでした。イギリスのコムギの平均収量は、一四五〇年には、一ヘクタール当たり〇・八トンでした(現在はこの一〇倍)。この当時は土壌肥沃度の低さ、とくに低窒素が主要な要因でした。堆厩肥や牧草、雨によるごく少量の窒素などが比較的恒常的に供給されましたが、土壌への窒素投資は少なかったのです。
しばしば飢饉にも直面し、一三一四~一六年の飢饉は西ヨーロッパを広く襲いました。伝染病(ペストなど)も同様に多く、一四〜十五紀はとても厳しい時代でした。ジャガイモは鍬あるいはホー(草掻き用手鍬)さえあれば各種の土質でも栽培でき、成熟までに三ヶ月ないし四ヶ月あれば十分で、穀類よりも三倍ないし四倍の収量があり、冷害や干ばつで穀類が不作のときにも収穫がありました。
栄養的に言えばミルクと相性がよく、一エーカー(〇・四ヘクタール)に牛一頭いれば一家族をほぼ一年間養えました。このためにジャガイモは評判となって広く伝播しましたが、それがまた脅威ともなりました。のちにアイルランドでジャガイモ飢饉が起こりましたが、それについては、後述します。
のちにイギリスのノーフォーク農業といわれるものは、一六世紀ないし一七世紀のフランダース地方(現在のベルギー、オランダ、フランスの一部)で始まっていました。ただ、記録に残されていません。フランダース地方は、排水、灌漑、肥沃化、輪作を長年にわたって適用して成功しました。
この農法がイギリスで広く使われるようになる一世紀も前のことでした。現在のオランダ地方は、農業の集約化について多くの貢献をしました。彼らは狭い耕地面積しか持てないので、バルチック地方(バルト海沿岸)から比較的安価な穀物を輸入し、収益の上がる作物に専念しました。