【前回の記事を読む】ラジオと共に生きた少年…人生の指針となった祖父の教えとは
四、終われば必ずチェックせよ 祖父より
実物と見比べながら赤鉛筆で配線図をなぞり、全てチェックさせられた。
配線図が赤く塗りつぶされていき誤配線はなかった。
「おじいちゃん。配線図通り間違いないよ」と言うと「そうか。よくやった。正夫。それでは電源スイッチを入れなさい」と言った。
こわごわ電源スイッチを入れた。
「カチッ」と音がして4本の真空管が次第に明るく点灯していった。
「バリコンをゆっくりと右へ回しなさい」と言われ3分の1位回した時、突然「こちらはNHK第1放送です」とスピーカーから音が鳴った。
「おじいちゃん。鳴ったぁ!やったぁ~」と大きな声で叫んで両手をあげて喜んだ。
生まれて初めて感激と感動を覚えた瞬間だった。
見えない電波を音にした爽快感は、私にとって一生忘れられない大きな出来事だった。
昭和25年(1950年)当時、ラジオ放送局は、NHK第1と第2しかなかった。
暫くすると各地で民間ラジオ放送局(民放)が続々と開局していった。
並4ラジオでは感度や性能が劣り混信や雑音でうまく民放を受信することが出来なかった。
そんな折、アメリカで開発された高性能な真空管式5球スーパーヘテロダイン受信機(以下5球スーパーという)が販売され話題となって普及し出した。
一般家庭では、当時、1万円以上と高くてなかなか買えなかった。
私は、ラジオ店の店頭で5球スーパーの性能の良さに魅せられた。
ラジオ技術雑誌に組み立てラジオの記事があるのを知り、部品を買ってきて自作してみた。
その時、祖父の協力がなくても、自分一人で組み立てられた。
完成すると、何と京都にいながら北海道の民放が受信出来た。5球スーパーの性能の良さに驚いた。そして、その組み立て技術と理論をマスターするため猛勉強を始めた。
そのお陰で、自分で部品を買い、アルミ筐体に、それぞれの部品を取り付け配線図を見なくても組み立てが出来るようになっていた。より一層自信をつけていた。
組み上がった5球スーパーを、祖父に見せて鳴らすと「正夫。わしの知らないラジオを良く作った。よく頑張った」と絶賛してくれた。その時の祖父の笑顔がいまだに忘れられない。
「何事も根強く努力すれば成せる」ことを学んだ。