会議室のドアが開いて、少しウエーブのかかった短い黒髪の、黒縁メガネをかけた小柄な女性が入ってきた。男はすぐに目を逸らす。「あら、珍しい」と男に声をかけながら、肩にかけていたバッグを、会議用テーブルの端の席に置いた。「My Life」を運営しているのは、この女と赤毛の男の二人である。二人でプログラミングやデザイン、サーバーの保守管理まで、すべてカバーしている。創設者兼オーナーのボスは、ほとんど姿を見せない。運営に必要なほとんどの作業を自動化しているので、二人だけでまかなえてしまうのだ。

「ああ」

男はコーヒーミルのハンドルを回しながら、返事ともうめきともつかない声を出した。女は、芳しいコーヒーの香りの中に、微かなアルコールの匂いを感じた。

「眠れなかったの?」

「ああ」

「会議のせい?」

赤毛の男は、答えずに、ミルにコーヒー豆をさらに加えて、再びハンドルを回し始めた。

「ま、遅かれ早かれ、こうなる運命だったのよ」

黒縁メガネの女は、ミルがコーヒー豆を砕く小さな音を聞きながら、自分のパソコンを起動させた。

「昨日のうちに終了の準備をしたの。サーバーはちょうど一か月後に安全にダウンする。構築する時は大変なのに、終わる時は呆気ないわね」

そういう女は、会議でボスにこう食い下がった。

「『My Life』は二十年以上も続いていて、これだけの数のユーザーがアクティブなんです。社会インフラといってもいい。それをあなたの一存で一方的に終わらせるのは、無責任なのでは?」

ボスは薄く笑っただけで何も答えなかった。これまで長く一緒にやってきた女がボスに反論するのは、男にとって意外だった。男はこれまで一度もボスに反論したことはない。

「君がボスに意見するとは思わなかったよ」

女はケタケタと笑った。

「そう? 別に反対なわけじゃないけど、何か言ってやりたかったのよ」

コーヒー豆を挽く音以外、何の音もしない。平和な、白い部屋。挽いたばかりのコーヒー豆の芳しい香りが、会議室に漂い始めた。男は、ミルを手にしたままパソコンに戻ると、相手の特定されていない「wYwh」の別のケースに目を止めた。東京の男とメッセージを交わしていた女である。