【前回の記事を読む】「無邪気さは自信の表れだ。鼻をへし折ってやりたい。」
Wish You Were Here
午後六時三十分の日本・大阪 。淀屋橋にあるオフィスビルの二十階。
「挽きたての芳り」と金字で謳っている缶コーヒーが、ある女のデスクの上で冷め切っている。
東京でビールを飲んでいる男の「My Life」で、「残骸」となっている女だ。残業時間に入った頃で、彼女は長い黒髪を一つに束ねている。広いオフィス内の電気は点いているところと消えているところがあり、まばらである。
窓の外には、ちょうどこのオフィスをコピーしたような窓がそこここにあり、やはりところどころ電気が点いている。女はこのオフィスで経営コンサルタントとして働いている。無駄を省き、少ない経営資源をどう活かすか。合理主義の女にはぴったりの仕事だ。女自身のそんなに多くはないエネルギーはほぼプランニングに注がれ、クライアントとの面倒な折衝はそれとなく部下に振っていた。
AかBか、二つの選択肢があったら、少しでも実現可能な方を選べ、感情や理想は抜きだ。女は会社の先輩から八年間、そう叩き込まれてきた。もっともだと思う。ただ、女自身のプライベートは、そううまくはいっていないようだ。女のデスクのはす向かいには、同僚の男のデスクがある。
それぞれの席を囲んでいる薄青のパーテーション越しに、携帯電話で話す声や、低くうなずく声が、断続的に聞こえる。女は、電話の相手が男の妻であることに、すぐに気づいた。
女がこの男とホテルに泊まり男女の関係をもって一か月。
男の挙動一つひとつに敏感になっていた。女のパソコンの画面は、一時間も同じエクセルシートを映し出しており、カーソルがただ行ったり来たりしている。なぜこんなことになったのか。それはもう、当事者にも答えられない問いだ。
明らかなのは、男にとっては、妻が急に入院した義母の介護で留守の間の出来事だったし、女にとっては、五年付き合った恋人と別れた後、男とともに連日の徹夜を伴うハードな仕事をこなした結果であった。
この男が離婚して女と晴れて結婚することは、どう考えても実現可能ではない。つまり、女は男と男女関係になるか、ならないか、二つの選択肢のうち間違った方を選んでしまったのだ。だが、今さらどうしようもない。一度、感情に絡め取られてしまったが最後、抜け出すのは難しい。それが男女関係だ。
女は密かに、「My Life」のメモ機能に「反省事項」を書き留めていた。数々の「反省事項」の羅列から、女の生来の姿が見える。この時間のオフィスでは、電話の会話を聞くつもりがなくても、耳に入ってくる。残業の様子やいつ帰れるかといったことから始まり、昼は何を食べたか、夕食はいるか、いらなければ夜食を作っておくか、お茶漬けなら食べられるだろうといった、いかにも共同生活をしている二人の話題である。
男は携帯電話に相槌を打ちながら、ちらちらと女の方を見た。女はそれに気づかないふりをしていたが、不意に男の視線に捉えられた。男は笑顔のまま、口の動きだけで「ごめん」と言った。