【前回の記事を読む】「私は本当に実現可能な方を選ばないといけないのだろうか?」
Wish You Were Here
はす向かいの男の話題は、宿泊する部屋のアップグレードをいかに安く頼むかということに移っている。
そういえば以前、泊まった旅館のスタッフに冗談で部屋の文句を言ったら、平謝りで部屋をアップグレードしてくれた、と男が武勇伝を話していた。あれも奥さんとだったのか。
男が携帯電話を耳に当てながら、女の方に歩いてきた。そして、女の隣の席に座り、耳と肩に携帯電話を挟んで、女のデスクからボールペンとメモ用紙を探り出した。相変わらず電話の相手には相槌を打ちながら、女にメモを差し出した。
男は急に高い声で笑いながら、「いい遊びだよ」と言った。女はぎょっとして男の顔を見た。
ああ、電話の方か。
差し出されたメモには「今日OK?」と書いてあった。男は笑って咳き込みながら言った。
「ほんと都合よかったよ、こっちは安上がりで助かったけど」。
女はもう一度男の顔を見た。男は「XXホテル」と書き足した。男は、
「そんなに何度も行けるかよ」
と笑いを引きずりながら、突然泣きそうな声になった。何がそんなに可笑しいのか、それとも悲しいのか。悲しくて泣きそうになっているわけではないのか。
男は「XXホテル」の文字をぐるっと丸で囲み、隣に大きく「?」と書いた。男はなおも笑いながら、「いいね露店風呂付の部屋」と言った。
女は、「これから東京に行く」と書きなぐった。
男は、「え?」という顔をした。女はさらに、「人に会いに行く」と書き加えた。
男は、女のパソコンの画面に、新幹線の時刻表が映し出されているのに気づいた。そして、携帯電話を耳から離して、左手で受話口を押さえながら、「あ」と何か言いかけた瞬間、誰かがオフィスのドアを開けて入ってきた。
男はすぐさま立ち上がって、ボールペンを持って自分の席に戻った。女は小さな溜息をついた。女はパソコンをシャットダウンして、男の視線を感じながらオフィスを後にした。
淀屋橋駅の地下を降りて、改札を通って、ホームに出た。左側には前方へ行く路線、右側には後方へ行く路線が走っている。左側の路線に乗れば、新大阪駅に着く。そこで新幹線に乗れる。
左の線路からはちょうど電車が出発したところであり、右の線路にはちょうど電車が入ってきたところだった。女はおもむろに携帯電話を取り出し、画像に収めた。シャッターを押す時間が僅かに長かったのか、二つの電車は光の尾をまとっていた。
女はこの画像が気に入り、誰にともなく「Wish You Were Here」と一緒に投稿した。
携帯電話をしまうと、はたと立ち止まった。腹立ち紛れに、東京に行くなんて言ったけど、東京方面に向かう左側の路線に乗り込むには、とてつもなく大きな「溝」があるような気がする。
選択したい方を選択してもいい、と思うものの、そうするのが怖かった。足が震えた。
実現の可能性の担保がないというのは、こうも怖いものなのか。いや、でもちょっと待って。第一、あの「wYwh」が自分に宛てたものとは限らない。勝手に自分に都合よく解釈しているだけかもしれない。突然行って驚かすこともアリかもしれないけど、危ない橋は渡りたくない。やっぱり実現可能な方を選ばなくてはいけない。
「My Life」から淀屋橋に現れてくれればいいのに。そうすれば、私は実現の可能性なんて考えなくてすむのに。
女は自分を持て余した。現実世界で、実現の可能性もないことをするのは怖い。誰かが、何かが助けてくれないかな、と思ったが、いつもの通り何かが起こるわけもなかった。
そして、いつもの通り、右側の線路に止まった電車に乗り込み、バッグから再び携帯電話を取り出して、「My Life」を開いた。「My Life」の男は相変わらず「My Life」の中の人に過ぎなかった。現実の世界の人として浮かび上がってこなかった。何事も起こらない、平和で、居心地の良い「世界」がそこにはあった。
現実は、ややこしいし、つらい。