【前回の記事を読む】騙される現実の方がまし。人とのつながりが感じられない、メタバースのむなしさ
Wish You Were Here
男は、目の前の椅子を見つめる。テーブルから少し引かれ、今にも誰かを迎え入れるかのような空間がある。そこに座るのは誰だろう。今、特定のパートナーがいないので、女性であってほしいが間違いなくあの妻ではないだろう。依然として男の中に大きな引っかかりとして残っているものの、すでに女の顔かたちを目の前に描くことはできなくなっていた。
あの妻でなければ誰? 男は泥のような記憶の層、「内奥」をのぞき込んだ。次の瞬間、耳をつんざくような甲高い笑い声が男の耳に飛び込んできた。男のテーブルの脇の道を、制服を着た二人の女の子が絡まり合うようにして通り過ぎていった。若い頃は、男も彼女たちのようによく笑ったり傷ついたりしていた。
あの頃のエネルギーはどこにいったのだろう。そう、十代の頃……、傷つけたり、傷ついたり。あの子はどこにいるのだろう。今ならもう少し、上手に気持ちを伝えられるのに。いや、そうかな。今もお前は不器用じゃないか。あの頃のひりひりした気持ちを抱えたまま、今日まで来てしまったじゃないか。記憶に蓋をして、思い出そうともしなかったじゃないか。男は酔いに任せて、もう少し深く、記憶の層をえぐってみようかとも思ったが、アルコールのせいでもやが濃く、やめた。
男は、空いている椅子とビールの瓶を、いつもの習性で携帯電話のカメラに収め、画像を投稿した。そして、ほろ酔いの勢いに任せて、誰も設定せずに「Wish You Were Here」を押した。赤毛の男は、ほろ酔いのまま、空になったビールの瓶を冷蔵庫の陰に置き、やはりいつもの通り、コーヒーを入れることにした。
会議室の隅には、コーヒー豆やミル、コーヒーメーカーなどが取り揃えてある。彼は、ミルにいつもより少し多めにコーヒー豆を入れ、大きな手でゆっくりとハンドルを回し始めた。そうしながら、「ある考え」を頭の中で転がす。
この男は、自分から積極的にメッセージを送って他人とコミュニケーションをとろうとしているようだ。「My Life」にある順風満帆な画像を見ると、無邪気さを感じる。人は自分を受け入れると信じているのだろう。だが俺はこういう無邪気な男が大嫌いだ。無邪気さは自信の表れだ。鼻をへし折ってやりたい。この男に「ある考え」を適用したくない。「ある考え」は、本当に助けを必要としていて、その効果を発揮できる対象でないとだめだ。