【前回の記事を読む】【小説】講じた策は稚拙なものだが…起死回生の一手となるか
永禄五年(西暦一五六二年)
畠山高政は河内南部の烏帽子形城まで敗走するも、支えきれずに大和国宇智へ落ちていき、安見宗房は大坂寺内町へ逃げ込み、姿をくらませた。京にあって何の動きも示さなかった六角勢は、畠山勢の敗報を聞くと、二万の大軍はおめおめと近江へ引き上げていき、京童のあざけりを受ける始末であった。ただ、六角勢にも近江へ退かざるを得ない事情があった。
というのも、この教興寺畷における合戦の半月ほど前に、長慶様は美濃の斎藤龍興と誼を通じており、近江の背後の美濃から六角氏に脅威を与えていたのである。長慶様の近攻遠交策の勝利とも言えた。そして儂ら三好勢は、石清水八幡宮に避難していた将軍義輝公を奉じ、義長様を総大将にして、京への凱旋を果たした。義長様は、この大勝利を機に名を〈三好義興〉と改めた。
この戦いで、将軍義輝公の伯父の大覚寺義俊と幕府政所執事の伊勢貞孝と貞良の親子は、六角承禎と結んで反三好の動きをみせたため近江坂本へ逃走した。その後、伊勢貞孝と貞良の親子は細川晴元の旧臣らとともに挙兵し、山城国杉坂城に籠城したのであるが寡兵だったため、儂らはこれを難なく討ち果たした。これにより代々幕府政所執事を世襲してきた伊勢家は没落した。
「キリスト教国においては、見たこともないような、甚だ白く光沢のある壁を塗りたり。建屋及び塔は私が過去に見た物の中で最も良い、指二本分の厚さもある真っ黒な瓦で覆われている。この瓦は一度葺けば、五百年はもつであろうと思えた。この街を歩いていても、塵一つなく清潔で、天国に入りたる感あり。
外より此の城を見れば、甚だ心地良く、世界の何処にもこのような美麗な建物は思い当たらない。中に入って、その宮殿を見るに、人の造りたる物とは思えず、筆舌に尽くしがたい。宮殿は悉く杉にて造られ、その匂いは中に入る者を喜ばせ、濡れ縁は皆一枚の板なり。壁はことごとく昔の歴史を写し、絵を除き、地はことごとく金なり。柱は上下を真鍮にて巻き又はことごとく金を塗り、彫刻を施して金の如く見ゆる柱の中央には美麗なる大薔薇あり。
室の内側は一枚板の如く見え、地に多く技巧を用い、私にはこれを説明することができないほどである。この宮殿の多くの建物の中には、他に比して更に精巧なる室あり。黄色なる木材を用い、甚だ美麗にして心地良き波紋あり。この木は加工甚だ好く清浄なる鏡に似たり。然れどもこれは木材の光沢に非ずして漆ならんと思われたり。
庭園及び宮庭の樹木は甚だ美麗なりというほか無し。私は京の都において美麗なるものを多く見たれども、殆どこれと比すべからず。世界中この城の如く善且つ美なるものは有らざるなり。ゆえに日本全国よりこれを見んが為に来る者多し」《『日本耶蘇会士日本通信』「ルイス・デ・アルメイダの書簡」より》