【前回の記事を読む】「何とか日本へ連れてって」中国への友好訪問で思わぬ出会い

南京友好訪問の旅

上海から南京へ

十八時、当方主催の答礼晩餐会を玄武湖公園内の定点賓館・白宛で催し、南京側を招待した。南京・名古屋の姉妹都市という心易さの友情が重なってか宴席は盛り上がり、友好親善の実が発揮された。二十時二十分閉会。

その後、名古屋における合同演奏会について双方担当が金陵飯店で会い詳細を解決した。私事であるが、私は名大在学中、名大オーケストラに入団していた。クラシック専門だが、当時の私には音楽をやれる十分な環境はなかったし、家族も父親の戦後の復興期で、高尚なクラシックには縁がなかった。

しかし、先輩の楽団ボスから、これからの日本は文化第一で、音楽をやっておくのも良いぞと勧誘された。しかし半数以上のメンバー(主として医者の息子たち)は、バイオリンを買う資力があったが、資力がなかった私はオーケストラの裏方に徹することにして、全員の譜面の作製、時により編曲、コンサート曲目説明などをやっていた。しかし、卒業の年に打楽器(ティンパニーなど)で舞台にデビューした。元来音楽は好きだったので、定期演奏会のアンケートなどで褒められると大変嬉しかった。

というような過去もあったので、南京少年児童民楽団の指導教師凌成先生と、細部は私一人で打ち合わせした。通訳は小学六年で日本語ができるS嬢が上手にやってくれたが、専門用語は手ぶり身ぶりと筆談で通じた。例えば合同演奏はニ長調の調性で演じるとか、南京側の低音楽器がやや不足なので、チェロ(中国語では「大提琴」)を二基、名古屋市から借りるとかを決めたので、実質見事に問題は解決した。

さて、自慢話はこの程度で、飯店の討議が終わり、時計は二十二時をまわっていたが、目的は十分に果たし得た。十一月十七日、七時半ホテル出発。日曜の朝で車も少なく五十分には空港軍用控所に到着。冷え冷えとした外で待たされること一時間。チャーター便五十二席の、古いガタガタプロペラ機上には私たち三十名のみが乗り、少々不安な思いで九時十分、空路杭州へと離陸した。滑走路側に三十六機の軍用機がホロをかぶって並んでいたのが印象的だった。