南京から杭州へ
南京︱杭州間三十五分の飛行は高度の低いこともあり、地上の様子がよく見えた。九時四十五分、杭州空港着。水路の発達による肥沃で広大な領土を有し、底力ある民族と長い歴史を誇る中国の凄さを痛感した。
杭州空港からバスは直ちに市内を通過して、西の山中に入り霊隠寺に着いた。日曜ということもあり混雑していたが、壮大で原色の強い伽藍がいかにも中国的だった。
沿道に石仏の布袋さんの像があった。布袋さんは菩薩とみなされており、このへんに道教と仏教の混在が見られる。我々は奈良県中宮寺の痩身の弥勒を見なれているので少々違和感がある。昼食後、西湖遊覧船にゆられて、のどかな数時間を過ごした。
特に三潭卯月の付近の眺めは感嘆するばかりであった。東山魁夷画伯の唐招提寺障壁画は、このへんから見た山と森をモデルにしたといわれる。湖をへだてた風景は淡くもやがかかっていて、山水画そのままである。中国は全体にいえることだが、空気が霞んでいるようなモヤがかかっている。これはこの季節だけの特徴だろうか。美しい西湖を後にして、銭塘江沿いの六和塔を訪れてから、西子賓館へ行き夕食をとった。
昼の庶民料理とはうってかわって、メニューつきの宮廷料理を味わった。杭州は南宋時代の首都で、当時の人口は一〇〇万に達していて、おそらく世界一の大都会であった。マルコ・ポーロも杭州を訪れて、この都市をキンサイとよんでいる。これは漢字に直すと行在という意味で、帝王が住んでいたことを意味する。当時から花と水に囲まれた美しい都であったらしい。この日は杭州飯店という西欧風のゆったりした建築のホテルに泊まった。ちょうどこの日が誕生日だった守田夫人は、賓館で皆の祝福を受けた。「地に蘇杭あり」と讃えられたこの美しい街で幸せなことであった。
十一月十八日、朝早くにモーニングコールで起きた私は、当地発、上海行きの特急で出発した。特急列車というものは実にゆっくり走る。上海までの四時間はやや退屈であったが窓外の風景は江南の特徴を遺憾なく見せており、クリーク(農業水路)が多く、のどかに船が行き交っている。時折アヒルが泳いでいるのも見えた。南船北馬という言葉がよくわかる。この杭州線は全線に亘って新線を横に敷設中で建設の槌音が印象的であった。
上海駅は五年前に比べ、全く新しく見えた。この大都市も少しずつ変わっているのか。バスで華夏賓館へ向かい、ここで名物の上海カニ料理を賞味した。私にとってはやはり日本のカニの方が旨いという感じがしたが、品数が十二品と実に多い。とにかく時の流れが漫々的の場所が多いが、我々の見えない場所で大変貌しているかもしれないという圧迫感はある。
午後は雑踏の街を縫うようにして、買い物をした。バスで北へ向かい、魯迅の公園に着いた。夕方に近くなり、暗くなった中をバンドからガーデンブリッジまでざっと見て、友諠商店に着く。ここの商品は品数が多く値段も安いので、皆活気づいた。おそらく日本の半値以下だろうと思われる。夕食のメニューは多かった。
十一月十九日、いよいよ帰国の日。乗り物を上海→長崎→大阪と乗り継いで、名古屋へ帰りついたのは夜の十二時近くだった。誰もがそれぞれ感慨を抱き、また日中友好の収穫に満足して解散した。