【前回の記事を読む】「何か引っかかるんだよね」破格の値引き提案の裏には…

大好きな音

十二月二日の朝、和枝と廉は呉羽楽器商会のB型中古販売会第二弾に来ていた。ピアノ探しの旅も、国産は選択肢から消え、二人が「弾きたい」「聴きたい」スタインウェイ探しへと行き着いていた。

今回出品されたのはかなり手が加えられた代物で、店の技術サイドから「少々難あり」とのコメントも事前に届いており、調律師の伊東さんからも「見送っていいでしょう」とアドバイスをもらっていた。それでも和枝と廉は「やはりこれもひとつのチャンス」と考えた。

開店時刻、店の前には誰一人並んでいなかった。前回販売会とは大違い。あっさり「交渉権一番」をもらったが何か拍子抜けした気分。早速弾いた和枝だったが「手が痛い」と、弾いたときの違和感を真っ先に訴える。そして音はすべての音域で平板な印象という結果で、すぐにパスすることにした。

このスタインウェイは一九七八年製で六〇二万円。元は鏡面艶出しだったボディーを艶消しに塗り替え、鍵盤も張り替え、ハンマーと全弦を交換、鉄骨は再塗装と、古傷をすべて覆い隠しての登場。どこか無理があるような、痛々しい印象さえあった。オーバーホールに一〇〇万円かかったというこの楽器、もはやスタインウェイというより「呉羽楽器製ピアノ」と言っても過言ではないのでは、と廉は思った。

二人とも、わくわくするような感じや将来の可能性に思いを巡らしたいという気持ちは起きなかった。でもそういうネガティブな感触を得ることも大きな収穫に思えた。

店の方からは「新品購入」の条件付きで、十四%の値引きと十万円のキャッシュバックが提案された。これで呉羽楽器でもA型かO型ならどうにか手が届く算段となった。十二月二十日、二人は、新品ならどれにしようかと、初めて正真正銘の選定に取りかかっていた。

和枝は「どれもこれも素晴らしすぎて」と改めて感じ、弾いているうちに顔も紅潮してくる。この日は、調律師の伊東さんの紹介で呉羽楽器商会の本店長、宮田さんが直々に選定相談に乗ってくれた。中古ピアノのメリットにも話は及んだ。

「値段云々じゃなく敢えて中古を選ぶピアニストも多いです。昔のスタインウェイの方が新品より良い材料で作ってあるし、長年使われたことによって音の響きが新品より優れている場合があるからなんです」

材料といえばピアノは木材、羊毛、鹿皮など有機的な部材に支えられているので、地球環境の諸問題を考えたら、ひと昔前の材料で作られた楽器の方が良いと考えるのが自然だ。そして響きの問題だが、使用状況によって熟成され、新品にはない音色感が醸し出される場合があるということだ。

一方、新品には自分の手で音を熟成させる楽しみが待っているわけで、自分がどんな音楽人生を思い描いているか、それが見えていないと最適な一台を選び出すのも難しいようだ。「うーん、煮詰まったぁ」と、和枝のため息交じりの笑い声が上がった。やはり音の迷宮から出られなくなってしまった。宮田店長に「お昼でもゆっくり召し上がって出直されては」と勧められ、素直に従うことにした。