【前回の記事を読む】値段じゃない!新品より中古ピアノが「優れている」ところ
大好きな音
二十三日のB型中古販売日は快晴だった。一番目の交渉権を確実に得るため、廉は築地のプレッソイン東銀座に前泊していた。夜勤明けに藤沢から出てくるのでは後悔する結果になりそうな予感がしたからだ。案の定、仕事から解放されたのは午前一時半だったので、宿を取って正解だった。熟睡こそできなかったが、心は躍る。
七時十分にホテルを出た。朝の散歩を楽しみながら向かう心積もりだったが、ふと不安になり、目の前のタクシーを拾って、日比谷のタイ航空前まで行ってもらう。呉羽楽器商会に続く階段を下りる。人っ子一人いなかった。時計の針は七時三十分。
「今からどれだけ待つんだよ。俺の心配性は病気レベルだな」
廉は苦笑しながらも、内心ホッとしていた。吹き抜けの地下一階、大理石の壁面には呉羽楽器が扱っているスタインウェイ社とハープのライオン&ヒーリー社の電飾看板が並ぶ。さすがに鋭い寒さが足元から這い上がってくるが、天井から覗いている都心の早朝の青空が嬉しかった。
店のシャッターの前、五メートルほどのスペースを行きつ戻りつしながら体温を保ち、待つこと一時間半。九時ちょうどにシャッターが開き、一番目の椅子を確保。廉は自分にできる最大の役目を果たすことができた。二番目の客は九時ちょうどに現れていた。
ガラス張りの店内では宮田店長が、こちらに背を向け仕上げの整音作業をしていた。びっくりするほど綺麗な音。早速和枝に「期待していて」とメール。和枝からは「出発遅れた。ごめん! 必死に向かってます」と返信。
十一時の開店と同時に真っ直ぐピアノの前に案内され、宮田店長が説明を始めたところへ和枝と遥が到着。そして息を切らせながらも音を確かめ始めた。
その日、和枝のスタインウェイはこのB型中古か、二十日に選んでキープしてもらっている新品のO型のいずれかに絞られた。さらにスーパーバイザー役をお願いする調律師の伊東さんとの日程調整で二十六日まで最終決定を待ってもらうことにした。
もう一台の候補だったA型は、タッチが重いのと、よくよく考えて、肝心の音がO型ほどは好きになれないという理由で和枝が外した。廉は音色の豊かさ、高音の響き具合、姿の美しさを含めた自分なりの好みから中古のB型に決まればいいなと希望的観測をしている。でも和枝は新品O型の音に強く惹かれている。
プロと素人、弾き手とリスナーの立ち位置の違いから来るものなのか。廉は曲の輪郭から辿って音の良し悪しを探っているが、和枝は弾きながら、一旦、音の深淵に潜り込んで、音と対話してから好悪を判断しているように見える。だから和枝の「このO型の音、大好きよ」という感想は、揺るぎない価値観なのだと思う。
ここまで来たらもう和枝の領域で、自分の心と話し合って決めてもらうしかない。廉はB型の可能性について感じるままを和枝に話したが、その感想が最終的にO型に決める判断材料になっても構わないという思いだった。
この日、和枝と廉はとてもいい時間を過ごした。将来、きっとこの時の高揚した幸せな気分を幾度となく思い出すことだろうと廉は思った。