東京都の立川共済病院でのインターン生活
昭和39年(1964年)大学卒業後、東京都立川市に行くことになった。当時は大学を卒業してすぐ医師国家試験を受けるのではなく、1年間全国主要都市にある指定病院での実地研修が義務付けられていた。研修を受けながら将来の自分の適性を見定めることが出来た。私共から見ると実によく出来た制度であった。即ち、無給で1年と悪名高きインターン制度であったが、アルバイトもできたので私を含め大部分の医学生には大いに歓迎された研修制度であったのである。
立川には北は北海道大学から南は鹿児島大学まで総勢13名の全国の国公立大学の卒業生が集まり、山吹寮で共同生活をしながら1年間を共に過ごした。生活のため、無資格ではあるが夜間近くの病院で宿直してお金を稼いだ。生まれて初めての収入であり、頑張れば結構な額になり、相変わらずよく遊び、よく飲んだ記憶が残っている。なんやかやでインターンも無事終え、医師国家試験にも通り、岡山へ帰ることになった。当時の医学生の、半ば定められた道であった。
昭和39年(1964年)は日本が敗戦から雄々しく立ち上がる契機となった年でもあった。東京―大阪間を世界初の超特急列車東海道新幹線が走り、東京オリンピックが華々しく開催された年でもある。全てを失った敗戦後20年にもならない時期での快挙であった。世界は驚き、日本は再びアジアの雄として再出発した。これら二つのイベントを経て昭和45年(1970年)大阪万博を迎え、日本は本格的に戦後から離陸し急発展していくことになる。
同じ釜の飯を食った13人とは離れ離れになったが、皆それぞれ活躍し、同室の田嶋定夫君は東大、京大、慶応を渡り歩いた俊才で大阪医大の教授となり日本形成外科学会の理事長として医学界をけん引した。還暦を過ぎたころ当時のメンバーが再会しようということになり、東京立川で一堂に会した。以来、山吹会として毎年誰かが幹事となり、旅行するなどして旧交を温めている。