大学時代(人生第一幕)
大学時代とは岡大医学部を卒業しインターンを終え、医師国家試験に合格してからの大学での修練時代である。当時の医師は卒業後70~80%は大学病院で研修をする道を選んだ。医師は先輩から手取り足取り教えられて成長する徒弟制度の中で育てられていたからである。このことは今でも変わりはない。大学では血液学、免疫学の教室に所属し臨床医学者としてのスタートを切った。一六年間の医局時代、当時として極めて先端的な発見をし、二つの分野で医療界に貢献した。その間当時免疫学で世界をリードしていたメルボルンのモナシュ州立大学に留学し、三年間の英連邦の大学博士課程(Ph.D.)も修得するなど充実した研究者生活を送った。
岡山大学医学部第二内科へ入局
第二内科の専門は血液、アレルギー学であった。1950年代がんの原因はウイルスだといってはばからなかった平木潔教授が主催していた。私の父が昭和9年卒の同級生という関係で入局することになった。入局してすぐ私の属する免疫班の大ボスの大藤眞助教授より「山名君、胸腺をやりたまえ」とテーマを与えられ、大学院に在籍することとなった。大藤先生の口からでなく、中ボスの有森茂先生よりの伝言である。「はあ、わかりました」で私の大学生活はスタートした。昭和40年初頭の医学部の上下関係は厳しく、すだれを介してものをいうが如きであった。
岡大医学部はわが国最古の歴史を誇っていて、当時中国5県、徳島を除く四国3県の長として君臨し、強大な勢力を誇っていた。平木教授宅には正月には各県の病院、関連医師からのお歳暮が門前にあふれ、トラックで天満屋に引き取ってもらっていたという逸話も残っている。中国四国各県の主要病院長、副院長は岡大が独占し、その名残は2000年初頭まで続いていた。当然地元医学部の反発は強く、広島で岡大出身の私が医業をやっていると、「お前よくやるな」といって不思議がられる始末である。
私自身は、学閥意識はなく人物で全て判断した。たとえは悪いが備前焼を作家で判断せず、作品で判断するのと同じである。1965年11月22日、当時は普通であった見合いで現妻中塚順子と結婚した。私は27歳、順子は21歳であった。順子の実家は岡山市表町商店街で明治初頭よりカメラ業を営み、岡大を含め幅広く写真関係の商いをしていた。いわゆる商人の娘であった。このことが将来の私の人生に役立つとは当時考えてもみなかった。商人の視点で私の医業を裏で支えてくれたのである。私は仕事をしていればよかった。