了以に呼ばれている
だが、現実には出版はかなり難航した。よく無名の作家や漫画家が原稿を見てもらいに何十社もの出版社を回る、というような話を聞く。そのくらい無名の人間にとって作品の発表の機会を得るのは難しい。そのうえ私は他人に会っていただいたり、「原稿をお読みください」とお願いしたりするのはとても苦手だった。知人を通して紹介された出版社とか、知り合いの編集者に何回か会いに行ったが,そのつど企画段階で断られた。原稿を読んでもらえないのが悲しかった。読んでさえもらえたら……「角倉了以」のエネルギーがきっと相手を惹きつけるに決まっている、と思い込んでいた。
「角倉了以? 知りませんね。そういう難しいのはうちでは無理」と言われたりもした。
「いま、そういう本は売れないよね」と何回も言われたが、そう言われるたび、「そういう時代だからこそ了以の存在に価値があるのよ」と心のなかで叫んでいた。
こうなったら”コネ”しかないと思い、若いころ勤めていた会社の会長にお願いして出版社を紹介していただくことにした。出版界に強い影響力をお持ちだった会長の”力”のおかげで、ある出版社の編集長にまで会うことができ、なぜだか原稿が完成したら出版を検討してくださるというところまで話が進んだ。
サンプル原稿として一章分の原稿をお持ちしたその出版社の編集長はなんだか浮き浮きとしていて、「これだけ書けているならいけるね。いつごろ原稿、上がりますか?」というようなことまで聞いてくださった。やっぱり強力なコネがあるとちがうと思ったが、なんだか、そこの出版社で「私の了以」を本にしてもらうのは気が進まなかった。
そんな我儘は到底言えない状況だったのだが、なんだか違う、いやなのだけど……という気がしていたのも真実だった。
原稿の完成を楽しみにしてくださった会長は原稿の完成直前に亡くなられた。そして、その話を決めて下さった先方の社長も同じ頃異動になった。当然話は無くなったと思った。いま考えるとそれを確認したわけではなかったがそう思い込むことにしたのだ。がっかりするはずなのに私はその時なぜかちょっとホッとしていたのだ。
「やっぱり、ここではないのよ。了以はここを望んではいない」
そんな気持ちだった。こういう流れになったということは、もうこの原稿の出版は無理なのかもしれないと諦めもついた。
何十年もの間、了以の墓所や千光寺の了以像の前で「私がきっとあなたを書きます。あなたをこの時代にも知られる人にして見せます」などと大法螺を吹いて祈ってきたのだ。そんな力もないし、粘りに粘る気力もないくせに、まったく身の程知らずの大うつけだと恥じ入った。
約束通り、原稿だけは書いたことで了以には許してもらおうと勝手に決めた。「私が死んだら、この原稿も一緒にお棺に入れて焼いてちょうだい」。姪にそう頼んだ。