転職によって開いた扉
その私に、後から思うとだが、「もしかして書けるかもしれない」と思わせてくれる転機が訪れることになった。それが、このライターからの転職であった。
驚くべきことに私は五十代になって突然スカウトされ転職することになった。それまでは編集者として、ライターとして活動していたのだが、突然外食産業という分野の会社からスカウトされたのだ。そして、その転職によって運命の扉が開いたのである。
その会社の社長によって角倉家への縁が導かれたことは先にも述べたが、転職によって私の前に現れてきたものはそれだけではなかった。
それまでの、一人の孤独の作業ともいえるライターという職業の十七年から、突然会社という組織のなかで働くことになったのだ。そして、このことが私の人生に”コペルニクス的転回”をもたらした、と言っていいと思う。会社で働くことで、私は初めて組織の有機的な働きとでもいうのか、たくさんの人間の考えや行動の一つ一つが組織に微妙に働きかけて動いていく様を実際に体験させてもらえたのである。
また、その後役員のひとりとして経営者の近くで、その考え方や行動を身近に見る機会ができたことも大きかった。とくに、思いもかけぬことながら社会的な状況によって会社が倒産寸前の危機に陥るというもの凄い体験をさせてもらう結果にもなった。
倒産寸前の危機に巡り会う
これこそが大変な価値だった。
いまでも、そのときの苦闘の二年間こそ私の人生に与えられた最高の贈り物ともいうべき時間だったと思っている。
会社の一大事に、経営者はなにを大事にしたか、なにを優先しようとしたかという局面を、私自身も社長のそば近くで体験することができたのである。そのとき初めて「事業家とはなにを、どう考える人なのか」ということをわずかながらも感じ、了以の人物像が幾分か膨らんできたのである。
この体験がなければ、ただ文章が書けるライターというだけでは、私には生涯「角倉了以」は書けなかった。十年に渡る会社での波乱の時間に一区切りがついたとき、はじめて「書き始めよう」と決心ができたのである。
ライターとしての十七年の生活の後に、突然の転職、そして、そこの経営者からの導きで「角倉家」に縁が付いたこと、と同時にライターでは決して経験できなかった「経営者の心」のようなものを疑似体験させてもらえたこと。すべてが「了以を書くためへの道」だったと私は思っていた。