了以に呼ばれている
そういう流れのなかで、私にはいつのまにか、大変厚かましいことながら、「了以が私を呼んでいる」という思いが強くなっていった。信じられぬくらいの道筋がいつの間にか作られてきたのである。了以自らの意思を感じたと言っていいかもしれない。了以によって導かれてきたとしか思えなかった。
そして、そういう考えを一層強くしたのが、現実に原稿の一行目を踏み出すきっかけが、また、不思議な巡りあわせで用意されていたのである。
東京で行われたある展示会で、それは京都の作家の作品展だったのだが、私はそのギャラリーのオーナーからあるご家族を紹介された。京都の名の知れた名家のご家族だった。その方々は、私が「角倉了以を書きたいと思っている」ことを知ると、自分たちの親族がご住職を務める寺にも資料があるかもしれないから紹介したい、と盛んに勧めてくださった。
私はそれまでに世に出ている資料はほぼ目を通していると思っていた。学者でもない私が、これ以上新しいものを見つけることは難しいだろうとも思っていたのだ。せっかくのご紹介だけれど、その寺院にまで行くのはなんだか気が進まなかったのである。だが、初めてお目にかかっただけなのに、とても熱心に勧めて下さり、その方へは電話を入れておきましょうとまで言っていただいた。実際には、少し有難迷惑のような気分もなくはなかったのである。
だが、その寺で私は思いもかけない「了以」の新しい資料を目にすることになる。そして、初めて私のなかで「了以が動き出す」感覚が生まれたのである。
たまたま、その日、ふと、その展示会に行ってみようと私が思い、また、その時間にそこにそのご家族が来られていたのである。数分違うだけですれ違ってしまったはずの出会いによって、見たことのなかった新しい了以の資料に導かれることになったのである。
ご紹介をいただいた嵯峨の鹿王院を訪ねたとき、ご住職はすでに私に必要な資料を見つけていて下さって、膨大な寺の資料から角倉了以に関わると思しきものを指し示して下さったのである。
そこに「吉田与七」という了以の名を見たときほどの衝撃はなかった。
私は世の中に起こるすべてのことに偶然はないと思っている人間なのだが、それにしてもこの出会いは私でなくとも偶然とはとても思えなかったろうと思う。
「このご縁は了以が引き合わせてくれたにちがいない」
と思わずにはいられなかった。
思い込みはかなり激しい方である。その結果─、
「了以が私を呼んでいる」と思い込んでしまった。そう思ったとしてもおかしくない展開だった。
「角倉了以は四百年の眠りからそろそろ目覚めようとしている」というような感覚を持ったのである。
その結果、原稿が完成されればそれは必ず出版されるはず、そして多くの人に読んでもらえるはずという思い込みにまで至ったとしても仕方がないだろう。