“ぶら読”のススメ
“非効率・不合理読書”について、もう少し補足します。
本によっても異なるでしょうし、読み手次第という部分がないわけではありませんが、私にとっての非効率・不合理の基準は極めてシンプルです。なるべく“速読”をしないということです。また、“多読”がいいとも思っていません。
言い訳に聞こえるかもしれませんが、読書の味わいは数ではないと思っています。はっきり言いますが、速読のできる人は、多かれ少なかれ流し読みをしています。訓練によっては、大事な部分を取りこぼさない読み方を習得できるのかもしれませんが、本当にそれが深い読書につながっているかどうかはなんとも言えません。
特急列車に乗ってノンストップで目的地まで行くのではなく、鈍行列車で旅に出たように、周りの景色を楽しみながら、途中下車を繰り返しながら、駅弁でも食べながら、行きつ戻りつ終着駅まで味わい尽くすというのが、私の勧める“ぶらり鈍行列車読み(ぶら読)”なのです。
補足になったでしょうか。大量に本を読まなければならない職業の人にとっては、速読や多読は生命線です。であるからして、速読がすべて悪いと言うつもりはありません。新聞や情報誌、ある種のビジネス書や自己啓発本、ハウツー本や恋愛指南書などはそれで構わないでしょう。
私のような凡人にとって大切なのは、読んでいるときに頭に思い描くイメージの情報量であって、目がなぞった文章の数量ではありません。時間をかけてゆっくり読んだ方がイメージが膨らみ、創作の役に立ちます。
世のなかには、読まなければならない(と思い込んでいる)本に追われている人がいますが、私程度の人間が生きていくのに必要な本は、そういうかなりゆっくりとした遅読であったとしても、おそらく十分読めるでしょう。
身勝手を言うようですが、これまた書き手側の立場から追加させていただけるなら、本を書くには想像を絶するほどの膨大な手間と時間とがかかっている、ということです。私自身も、この一項目の文章を書くのに、最低でもみっちり二週間はかかっているでしょう。ことあるごとに改稿し、推敲し、一文の精度を上げるために五〇回以上も書き直しているのです(私だけでしょうか?)。
あるひとつの作品の背後には、作家からの、さらに途方もない広く大きな言葉の世界が広がっているという事実を、できれば理解していただきたいと願っています。もっと贅沢を言わせていただけるのなら、本を書くのに費やした時間分の時間を、読書にも費やしてほしいとさえ感じています。