幸福度を上げるための読書とは
快適で有意義な読書とはどういうものなのでしょうか? いつまでも記憶に残る読書でしょうか、役に立つことを吸収できた読書でしょうか。私の考えになってしまいますが、それは「読むべきときに、読むべきものが読めたとき」です。良書だからといって、誰がいつ読んでも素晴らしいわけではありません。
埴谷雄高の『死霊』に対して、「ドストエフスキーの影響を受けた筆者が、五〇年もの年月をかけて取り組んだ魂の作品です」と言われたとしても、三島由紀夫が「埴谷氏は戦後の日本の夜を完全に支配した」と絶賛したとしても、読むべき人が読むべきときに読まなければ、素晴らしさは伝わりません。私のような浅学者が、いくら魂を込めて、夜通し読んだとしても、まったく理解できないでしょう―ちなみに彼の本籍は、現在私が住んでいる福島県南相馬市です。
繰り返しますが、読書にとって大切な心がけは、「読むべき人が」ということと、「読むべきときに」という点です。以前にも述べましたが、「読んでもよくわからなかった」とか、「つまらなかった」というのは、読解力が足りなかったというよりは、その人にとって、その本を読むタイミングではなかったというだけです。
つまり、「どうしたら一つ一つの言葉にかけがえのない確かな意味を感じることができるか」ということに尽きると思います。読むべきときに読むべきものが読めたとき、私たちはほんの数行でも、あるいはたった一つの言葉でも胸を打たれるという場面に遭遇します。本を探すというより、本と出会う、あるいは本に呼ばれるという経験をしたとき、自分の読書観は大きく変換されます。
”読書は勉強や学習ではない”というのが、私の持論です。気が付いたら一冊読み終えていたというのが理想ですので、幸福度の上がらない、忍耐力を酷使しないと続けられないような読書なら、何も無理して本を読む必要はないと思っています。
読書をしない人は、読書をする人に向かって時折、「何を、どう読んだらいいのか?」という問いかけをしてきます。このような質問に、本当の意味で答えることはできません。なぜなら、読む人は、次から次へと読みたい本が増えていくので、「何を、どう読んだらいいか?」なんてことを考えた経験がありません。「この本を、自分なりの読み方で読んでいる」としか答えようがありません。
ただ、そう言ってしまうと身も蓋もなくなってしまいますし、「では幸福度を上げるための読書力をどう養っていけばよいのだ? 多少は忍耐力を持って本読みを続けなければ、読みたい本に巡り合わないではないか」という、さらなる疑問の回答にもなりません。